この香りはどうしてこんなにも、胸刺す切なさを含んでいるのだろう。   

     

 

 

 

 

 

  

 

 

   

 

 

キンモクセイの香り

 

 

  

 

  

 

 

 

 

 

「お前はこんな所で何をしている?」

 

川沿いのベンチに腰を降ろしたまま麻衣がぼんやりしていると、背後からよく通る低く滑らかな声をかけられた。

声質はいいのに、そこに込められた感情はあまりに不躾で、麻衣は苦笑しつつ振り返った。

そこには予想通りの漆黒の美人が、不機嫌も顕わな表情で立っていた。

 

「金木犀」

「は?」

「いい香りがするって思ったら見つけたの。イギリスにも金木犀の木があるんだねぇ」

 

麻衣はそう言うと、ベンチ脇でこんもりとした葉を茂らせ、小さな黄色い花を咲かせた木を指差した。

色づいた小さな花からは、ふわりと漂う強い香りがする。

指摘されて初めて気がついたであろう漆黒の美人は、僅かに嗅覚を鋭くした様子だったが、すぐに興味をなくしたように瞳を閉じた。彼にとっては芳しい花の香りも取るに足らない瑣末なことなのだろう。麻衣はその様子を小さく笑いながら、倣うように瞼を閉じた。

 

「懐かしいなぁって思ってさ。ナルは気がついてなかっただろうけど、渋谷の事務所の側にも金木犀の木があってね、すっごくいい匂いがしたんだよ」

 

口にした単語によって、僅かにナルの興味が動いたことに満足して、麻衣は続けた。

「香りに気がついたら、日本であった色んなこと思い出しちゃってついついぼんやりしちゃったんだよね。金木犀ってね、日本には結構いっぱい植えてあるんだよ。昔お母さんと住んでいたアパートの側にもあったし、高校の近所にもあったの。秋にだけする香りだからかなぁ、ちょっと切ないような懐かしい気持ちになるんだよね」

麻衣は胸いっぱいに金木犀の香りがついた空気を飲み込んで、瞼の裏に残る微かな記憶に付け足した。

まるで夜になることを待っているように、どこにある金木犀にも昼よりも夕方、夕方よりも夜に、その香りにはっとさせられることが多かった。

夜闇の中で匂い立つ金木犀。

それは昼の喧騒とはひどく不似合いな、とてもセンチメンタルな香りだ。胸が苦しいような、切ないような、酷く心をかき乱すそれは、幸せだったはずの記憶もどこか切ない感情を引き摺って思い出させる。

そう思えば、情緒的な物思いに浸ることを好む日本人が好きそうな香りだ。

――― 私も例にもれず、そんな日本人だったってことかな。

おかしなものだ。日本にいる間は特に自分が日本的な人間であるなどとは思いもしなかったのに、こうして海外に住んでみると日本の風土に慣れ親しみ、骨の瑞まで影響を受けている自分に気がつく。

麻衣は自嘲しながらも、それも決して悪いものではないと思った。

おそらく、そして実際に、そんな感情の礫など微塵も理解できないであろう漆黒の美人は、感傷的な麻衣の様子にため息をひとつ落とすと、実感など込められていない、嫌に平坦な口調で尋ねた。

 

「日本に帰りたくなったのか?」

 

その取って付けたような疑問符からナルとの距離を測って、麻衣うんざりしながら腰を上げ、断罪した。

 

「ナルは馬鹿だなぁ」

 

とっさに不服そうに顰められた美貌を見上げ、麻衣は口元を緩めた。

 

「懐かしいと帰りたいは別物だよ。それに私が帰りたいのは " ナルがいる所 " であって、日本じゃないよ」

 

ナルが日本にいたら話は早いけどね。と、あっさりと言いのけた麻衣に、ナルは僅かに目をむいた。

それは見慣れぬ者ならばとっさには分からないくらい小さな変化ではあったが、麻衣はそれを見逃さず、にっこりと微笑んで手を伸ばした。

 

「それじゃ、帰ろっか?」

 

浮かべられた満面の笑みに含むものを感じ、ナルは僅かに機嫌を悪くしたが、それもまた麻衣にとってはからかいのネタになるだろうと、ナルは慣れた手順で表情を押し殺した。

とっさに嬉色が浮かぶなんてまだまだだ。ナルはそう自嘲しながら、差し伸べられた手を掴み、掴んだ手が思いの他冷たく固まっていたことに、今度はあからさまに顔を顰めた。

 

「ナル?」

 

ナルには理解できないが、人は時に取るに足らない思い出に浸り、自己陶酔することがある。

それを全面的に否定はしないが、だからと言って何時間も寒空の下にいる理由にはならない。

ナルはその馬鹿馬鹿しさにうんざりと肩を落とし、疑問符をつけて呼ばれた名前には答えず、その前の言葉に返事を返した。

 

「それでは研究室に帰るとしようか」

「へ?」

 

まぬけ面で呆ける麻衣を見下ろし、ナルは内心で頷いた。

今日はもう帰宅するつもりではあったが、戻って仕事を続けるのに不都合があるわけではない。

それに、研究室が一番早く暖が取れる。 

  

 

 

「僕の居場所が麻衣の帰る場所なら、当面は研究室だからな」

「ちょっと、仕事終わったんじゃなかったの?!もう暗いよ!帰ろうよ!!!」

 

 

 

麻衣の悲鳴にナルはうっそりと微笑みながら、強引にその手を引いた。

 

 

 

言い訳・あとがき

100,001番 夏瑞様からのキリリク ナルと麻衣の香りにまつわる思い出
 です。

お、遅くなって・・・本当に申し訳・・・ありません;▽;

香りに纏わる思い出とのリクを頂いた時点で、すぐに思いついたのは金木犀だったので、絶対に使おう!と思っていたのですが、それを文字にするのに手間取りました・・夏瑞様!こんなものでもよろしければ、是非お納めくださいませ。
もちろん返品可能です。