高校時代から賃貸契約を結んでいるアパートが区画整理の一環で取り壊されることになり、年を越してすぐ、麻衣は新しいアパートを探すことになった。 築年数的にも、立地条件的にもいつかはそんな事態になるのではないかと、かねてからその危惧は頭の隅にはあったが、実際にその事態に見舞われるとやはりショックはショックだった。特に大家や隣人とは良好な関係を築いていた麻衣にとっては、そう言った意味での感傷的な衝撃も少なからず生じた。 けれどそうは言っても事態が変わることはない。 天涯孤独の身の上としては、現実的に問題解決に乗り出さなければ本気で住む場所がなくなってしまう。 しかも身よりもなく、保証人の立てられない学生である麻衣のアパート探しは困難を極めた。 けれど幸いにも家主からの契約破棄のために引越し費用にあてる程度の違約金の支払いがあり、懇意にしていた大家が不動産屋に便宜をとってくれた為、なんとか引越しをする算段がついたのは、アパートの取り壊しが決まってから2ヶ月ほどした春先のことだった。
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「・・・・・・・・ というわけでね、今度のアパートは事務所とかここからはちょっと離れちゃうけど、1Kの六畳一間になったの。ナル、六畳ってどれくらいの大きさかわかる?ここに比べたら本当に狭いし、古いんだけどさ、今度の部屋はユニットバスが付いているんだぁ! これは大きいよね。銭湯に通わなくていいんだもん!すっごい嬉しい!」
ようやく賃貸契約を結ぶ段階にまで漕ぎ着け、麻衣は人間らしい生活に関しては無関心の権化のような恋人に対して、自分が作った食卓を囲みながら新しい住居について説明をした。 あえて返答や反応を求めてはいないのだろう。麻衣は終始無言のナルの態度にも特に気分を悪くすることもなく興奮状態で新しいアパートの話を続け、上機嫌で春キャベツを煮込んだスープを飲んだ。その嬉しそうな表情を横目に、無愛想な恋人である所のナルは無表情のまま浮かれた麻衣に水を差した。
「バイト後はほとんど僕の部屋にいるんだ。何も新しく住居を構えないで、このままここに住めばいいだろう」
唐突に話を中断され、麻衣は思いっきり不本意そうに顔を顰めた後、その言葉の意味に瞬く間に顔を真っ赤にしてうろたえたが、これもまたすぐに我に返り、ギトリ…とダイニングテーブルの向かいに座るナルを睨んだ。
「それは"同棲しませんか?"ってお誘いに聞こえるんだけど?」 「そうとってもらっても構わないが」
住居問題に片がつく提案を歓迎するかと思いきや、それを口にした瞬間、麻衣は顔を真っ赤にして眉間に皺を刻んだ。その反応にナルは内心で首を傾げつつ、食べ終えたスープ皿をテーブルの端に寄せた。 鉄壁な無表情ではあるけれど、そこから薄皮一枚剥いだ本心は、正しく"意味が分からない"といったところだ。そのあくまで鈍感な本音に麻衣はイライラとしながら、何とか声のトーンを押さえ、低い声で抗議した。 「あのさぁ、わたしが引越ししなくちゃいけないって言い出して、もう随分経つんだけど?」 「・・・・そうだな」 「それでわたしが苦労していたのもナルは知っているよね?それが明日ようやく契約って段階になって何で今更そんな事言い出すの?その気があるならもっと最初にそう言ってくれてもいいじゃない!」 「麻衣が言い出さなかったからだろう」 「私のせい?」 「麻衣の住居問題だからな。そうなるだろう」 ぬけぬけとのたまうその態度に麻衣の中で何かが音を立てて切れた。 しかしここで感情的に怒鳴り散らせば、何故か最後は自分一人が悪者になってしまうことが少なくない付き合いから推察され、それは悔しいと麻衣はぎゅっと唇を噛み、一瞬間自分の心と向き合った後に口を開いた。 「だってナルが誰かと一緒に住むなんて想像できなかったんだもん」 「これでも16までは家族と暮らしていたのだが」 「・・・・・そうじゃなくって! 私と一緒に暮らすの迷惑かと思ったんだもん!一緒に暮らすなんて考えられなかったんだよ。だって普段の生活から考えたら絶対そう思うじゃない。ナルは私と暮らすなんて迷惑でしょう?」
「正直迷惑だな」
ざくりと心臓を切り裂く言葉に、麻衣は息を飲んだ。 途端に何だかむしょうに悲しくなって涙が込み上げてきそうになるのを麻衣は必死に耐え、正面に座る美貌の恋人を睨みつけた。ともすれば滲みそうになる視界に映る恋人はそんな麻衣の反応に、良心の呵責を感じることもないのか、淡々とした口調で補足説明を続けた。 「だが、こうしてイチイチ送迎してやるのも同じく迷惑だ。だったら一緒に暮らした方がロスが少なくていい」 どこまでも不遜で、どこまでもロマンを解さないナルの物言いに、麻衣はげっそりと肩を落とし、それからややあって苦笑しながら顔を上げた。 「ナル・・・・・」 「何だ」 「イチイチ言いたかないけどさぁ、あんたもう少し女の子に対する口の利き方学習した方がいいよ」 「意味が十分伝わったのだからいいだろう」 「いいわけないじゃない」 麻衣はそう言うと話は終わったとばかりに席を立ち、空になった食器を重ね始めた。その様子にナルはしばし言葉をなくしたが、結論が得られていないことに思い至り、面倒そうに再度口を開いた。 「返事は?」 当然Yesが返ってくるだろうと疑いすら持っていないそのおざなりな質問に、麻衣はげっそりとしながらも、少し嬉しく、少し満たされ、少し意地の悪い気持ちになってにっこりと微笑んだ。 「ん〜〜・・・・願ったり叶ったりの提案ではあるけどね・・・・・やっぱりやめておく」 ひくり、と綺麗な柳眉が不機嫌そうにつり上がった。 それを目にして麻衣は満足そうに微笑むと重ねた食器をキッチンに運びながら、朗々と語った。 「タイミングも言い方も最悪。まぁナルだからね、しょうがないかなぁとは思うけどさ、それでもそういう彼氏に夢を持って飛び込むってことはできないよ。のぼせ上がるなんてできないじゃない」 「住居問題は現実問題だろう」 「うん、そう。現実問題」 シンクに汚れた食器を次々に運び入れながら、麻衣はう〜んと悩むように唸った。 「現実問題だとしたらますます同棲なんてできないよ」 「・・・・」 「だってさ、ずっと一緒にいられる保証なんてないでしょう?」 自分で言っておきながら、その言葉の意味に麻衣はちくりと胸に刺さる痛みを感じつつスポンジに洗剤をかけ、積み上げた食器を端から順に洗い始めた。 「今はお付き合いしている仲だけどさ、明日別れる可能性だってあるわけじゃない。私の家って本当にそのまま私の唯一の家になっちゃうんだもん。別れて、一緒に住みたくなくなっても、帰れる家がないんだよ?そんなの怖いよ。現実問題と考えたらそんなリスクはとてもじゃないけど負えないよ。それにナルにべったり依存して、ナルがいなくなったら途方に暮れるようなのはイヤだよ」 嫌な所は山ほどあるけど、それでもやっぱり目の前の人が好き。 いつまでも一緒にいたいし、いつでも一緒にいられたらそれはそれは幸せだろう。 くてん、と、恋人に依存できたら楽だろう。 その様子はもしかしたら可愛らしく見えるかもしれない。 でも何とかして自分の始末をつけなくてはいけないって身分では、楽観的過ぎるようなその欲求にばかりかまけているわけにはいかないし、実際にそうしようものなら不安でうろたえてしまいそうだ。
―――― かわいくない女だよなぁ。
麻衣は自嘲しながら手早く食器を洗い籠に並べ、壁掛け時計で時間を確認すると慌ててエプロンを外し、ソファに投げ出していたバッグを掴んだ。 「それじゃぁね、電車の時間だから帰るね!」 そうしてゆっくりと後を追ってくるナルの気配を感じながら、パタパタと廊下を渡り、玄関で靴を履き替えるべく下を向いた。その瞬間、低いテノールが麻衣の耳に飛び込んできた。 「 「へ?」 上から降りかかってきた正体不明の言葉に麻衣が顔を上げると、そこには億劫そうに壁に寄り掛かりながら、不機嫌そうに腕組みをしたナルが闇色の瞳を細めて麻衣を見下ろしていた。 「僕と別れるんだ。その時は何をしたって麻衣は立てなくなるくらい泣くんだろう?」 「え?」 麻衣が思わず聞き返すと、ナルは僅かに口の端を吊り上げ、ゆっくりと顔を近づけてキスをし、そこから唇を離した際に低く囁いた。
「せいぜい泣き喚け」
そうして豪奢な笑みを浮かべ、ナルは首を傾げた。 「僕とこんな関係になってしまったのだからそれは仕方ないだろう。予防策は無駄だ。無意味な我慢はやめておくんだな。・・・・・それとも、麻衣はマゾヒストなのか?」 麻衣は見る見る間に顔を真っ赤に染め上げ、ぎりりとナルを睨み上げた。その恨みすら込められた苛烈な眼差しにナルはうっそりと微笑み、さらりと揺れた栗色の髪を指先で絡め取った。
「許可してやる。ここで暮らせ、麻衣」
目の前にぶら下げられた欲しい未来は果たして正解なのか。 まっすぐ墜落するには、相手が悪過ぎる。 麻衣は既に傾ぎかけている胸を何とか張って、成否を見極めようと眉間に力を入れた。
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言い訳・あとがき 250,000番 にしむら様からのキリリク 『甘々のナル麻衣』 です。 ・・・・多分。 おそろくしく時間がかかった割には何なのコレ?!と、実はこれ、同じテーマで書いた3回目のお話です… |
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