ふと、目が覚めた。 いつの間に眠り込んだのか、ここがどこなのか、何もかもがぼんやりとして、よくわからない。 目を覚ましたばかりの彼は、ぼやけた視界の中でまずは一番に母親の姿を探し、自分のすぐ横で眠るその人を見つけた。 「ママ」 嬉しくなって呼びかけてみるが、母親は目を覚まさない。 不思議に思い、彼は母親の顔をよく覗き込んだ。 そして、母親が息苦しそうに呼吸を荒げ、額にもうっすらと汗がにじんでいることに気がついた。 その様子に彼は驚き、慌てて母親を揺さぶったが、様子は少しも変化しなかった。 「ママ?」 胸を満たしていたぬるい体温と甘く淀んだ空気は一瞬で吹き飛んだ。 彼は途端に不安になって横になっていたリビングのソファから、体を捩って脱出した。 母親のお腹の中には今、彼の弟か妹が入っている。 " 妊娠 " と呼ばれるその状態は、ひどく大変なことと彼は聞いたばかりだった。
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言えなかったけど |
赤ちゃんが授かってから、母親は彼を連れて定期的に病院へ通うようになった。 一緒に付いて行く病院には、いつも同じスタッフがいて、患者も多少の出入りはあるがほぼ同じメンバーだった。 そのために、母親のお腹が十分大きくなる頃には、彼も一緒に病院へ通う年の近い子どもと友達になって、色々話をするようになっていた。その内の一人に、彼よりも少し年上の少女がいた。
「君のママはよくそんな優しくない人と一緒にいられるわね!かっっわいそう!!!」
彼女は大変お喋りで、一度も母親の付き添いに来ない彼の父親に向かって、随分大人びた口調でありえないと嘆き、彼の父親をバカにして笑った。 「赤ちゃんを産むママは本当に大変なのよ!それで死んじゃう人もいるんだから!それを一人にしておくなんてあんまりだわ!君のパパとママは愛し合っていないんじゃないの?」 栗色の髪が愛らしい少女から発せられた言葉は、彼に少なからずショックを与えた。 ――― ママがかわいそう?パパのせいで? それは新鮮な驚きで、同時に酷く悲しいことだった。 彼は思わずその少女を平手で叩き、そのために母親からとても怒られた。 それでも彼女の言うようなことを彼は信じたくなかった。 そこで彼は帰宅後すぐに父親に一緒に病院へ行ってくれと懇願したのだが、それはあっさりと却下された。
「僕が子どもを産むわけじゃない」
そう言われればその通りなのだが・・・・彼は何だか言い表せない憤りを感じた。 そしてそれは世間一般的にも理にかなったことだったのだが、彼はあまりに幼くて、その不条理性をうまく言葉にして訴えることができなかった。 ――― あれはこういうことなのかもしれない。 彼は恐怖と不安で混乱する頭でそんなことを考えた。 ――― だからママは今こんなに苦しんでいるんだ。このままママが死んじゃったらどうしよう! 彼はショックのあまり言葉をなくした。 けれど、黙っていても状態が改善されることはない。 今はまず母親のことが第一だ。 彼は普段は絶対に近づいてはいけないと固く禁じられている父親の仕事部屋に向かい、その大きなドアを両手で叩き、大声で父親を呼んだ。
じっれたくなるような間があって、彼の父親は不機嫌そうに部屋から出てきた。 その険悪な表情に彼は反射的に無条件降伏をしたいような気持ちになったが、何とか勇気を振り絞り、母親の状態を説明した。普段であれば何かと言い訳をして、部屋から出てくるのさえ嫌がるのだが、この時ばかりはさすがの父親も彼の説明を聞くとすぐに母親が眠っているリビングに向かい、その窮状を感知すると素早く何箇所かに電話をし、眠ったまま目を覚まそうとしない母親を抱き上げた。 彼の目から見ても細身の父親が、お腹の大きな母親を抱き上げたことに彼は驚き、呆然と父親を見上げたが、そんな息子に対しても父親は冷静に無表情で指示するだけだった。
「これから病院へ行く。ついて来なさい」
慌てて後を追いながらも、事態の急変に驚いて彼がべそをかいていると、父親は大仰にため息をつき、彼の頭を撫でた。 「お前が泣いても事態は変わらない。泣き止め」 もっともだ、と思う頭と、あまりに冷たいと悲しくなる心と、それでも頼りたくなっている自分に、彼は息を飲んだ。 そんな息子の葛藤をもあっさり無視して、父親は慌てる様子も見せずに病院へ向かった。
病院へ到着するとすぐ、待ち構えていた病院関係者に母親はあっという間に連れ去られ、彼は父親と共に待合室で母親の診察状況を待つことになった。 彼は興奮状態でいても立ってもいられなかったが、動揺した表情一つ見せることなく、待合室のソファに優雅に腰かける父親の横では慌てることも躊躇われ、そのまま大人しく横に座った。 そして彼は初めて、周囲の視線が自分達に集中していることに気が付いた。 周囲を見渡すと、彼の父親を詰った少女も部屋の隅で母親と共にこちらを見ていた。 そして彼の視線に気が付くと、少女は頬を赤らめて横を向いた。
薬で眠り込んだまま病室に移動させられた母親を見るために彼が背伸びをすると、父親は彼を抱き上げ、肩に乗せて母親の顔を見せた。 安らかに眠るその顔を見て、彼は安心したのだが、次の瞬間、周囲をやけに沢山の看護婦が取り囲み、こちらを見てため息をついていることに気がついた。 普段はぶっちょう面の年配の受付事務ですら、父親の前では頬を赤らめ、普段より一段高い声で入院手続きを説明した。それに代表されるように、母親の緊急事態だというのに、周囲の人間は父親の出現によってどこか浮き足立っていた。
「電話をしてくる。ここで待っていろ」
入院手続きを済ませると、父親は彼をキッズコーナーに放り出し、席を外した。 彼が呆然と父親の後姿を見送っているとすぐに、顔見知りのおばさんやその子ども達が彼の周囲を取り囲んだ。 「彼はあなたのダディなの?」
そして彼が頷くと周囲からはどよめきが生まれた。 「彼が本当にミスター・デイヴィスなのね!本当に素敵な方ねぇ!」 「かっこいいわぁ。ミセス・デイヴィスが羨ましいわね」 「モデルみたいね!色っぽくて本当に綺麗なご主人・・・」 色めき立つ大人達の喧騒を他所に、彼が横を向くと、頬を赤らめた少女と目が合った。 栗色の髪をした少女は両手を頬にあてて、彼にそっと囁いた。 「前言ったこと、アレ、間違いだわ」 「え?」 「あんなにかっこいいダディだったら、みんな許せる!」 「・・・・」 掌を返して力強く言い切る少女に、彼はがっくりと肩を落とした。
ユート・デイヴィス、3歳。 世の中の不条理と、移ろいやすい女性心理、そして父親に対する敵対心を初めて自覚した日の出来事であった。
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言い訳・あとがき 66,666番大島美知子様からのキリリク 『優人がナル嫌いになったきっかけ』 です。 多分、こういうことが積み重なって、優人は御大嫌いになっていったんだと思います。 下らないssになってしまって本当に申し訳ありませんが・・・大島美知子様、如何でしょうか? |
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