彼女の誕生日。 些細なトラブルから予約していたホテルの一室で喧嘩になった俺達は、そのまま修復するすべをなくした。 「もういい!」 我儘で、強気で、気風のいい彼女はそう怒鳴ると、足音も荒く部屋を出て行った。
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めんどうな感情 |
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男と女の仲も、30になる頃には一定のパターンが掴めてくる。 どうしようもなく溺れることとか、わけもなく駄目になる時期とか、そしてその実、恋愛事情の全てはタイミングの神様に握られてんじゃないかって疑いたくなることとか。 血気盛んな19、20の若僧でもあるまし、サカリのついた中学生でもない。 仕事の波に乗っている今の年では、正直そんな恋愛は面倒になることもある。 同世代は早々にそんな恋愛時期を卒業して、一人の人間と結婚して、子どもを作って、決まりきった"幸せの形"に胡座をかいていたりもする。けれどそれが今の生活よりいいものとは、俺には到底思えない。 何か、俺にはそういうの全部゛あきらめてしまった人生゛の負け惜しみに聞こえる。 正直、人生に女は必要だと思う。 でも、それはとても面倒なことだとも思う。
その日、とにかく疲れていた皆川透は喧嘩した彼女の後を追うことを諦めて、ホテルの自室で惰眠をむさぼり、夜10時過ぎという中途半端な時間に目覚めた。 ――― ラスト・オーダーが過ぎてしまったかもしれないな。 ホテルの夜は存外に早い。 皆川は眠りすぎたと顔を顰めたが、そのまま部屋に篭っているのも気が滅入りそうだと、手早くシャワーを浴びて着替えをすませるとホテルのバーに向かった。 若い女性が好みそうな洒落たバーの入り口には、すっきりとしたビジネススマイルを浮かべたボーイが立っており、皆川の姿を見つけると、その角度すら決まっているかのように頭を下げ、ラストオーダーが終わってしまったことを告げた。 これから外に出るのも億劫だったので、皆川が部屋に備え付けのウィスキーでも飲み直そうとエレベータに向かうと、そのボーイは決まりきった笑顔を浮かべて付け加えた。
「夜景をご覧になりたいのでしたら、一つ上の階に展望台がございます。ホテル宿泊のお客さまは自由に出入りができますので、どうぞそちらをご利用下さいませ」
女連れでもないのに、馬鹿にしてんのか。と、ボーイが告げた情報に皆川は初め鼻白んだが、もともと部屋にいても腐るだけと思って出てきたのだからと思い直し、乗り込んだエレベータで一つ上の階に向かった。 話題のホテルのエレベータは無駄に広くて、ソフトであることが存在理由であるかのように振動が少ない。 ふわりと浮かんだような感覚に背を押され、皆川は最上階に位置する展望台に足を踏み入れた。 展望台は全面ガラス張りで、中央のエレベータを取り囲むように円い回廊になっており、一般客の入場は終了した展望台は人が少なく、見渡しても両手で数えるくらいのカップルしかいなかった。 多少の違いはあれど日本領土内のこと。夜景なんかどこも一緒だ。 皆川は一巡だけして部屋に戻ろうと決めると、横目で夜景を眺めつつ、足早に回廊を回った。 そしてその先で、この光景とはあまりに似つかわしくない、そして見覚えのある子どもの後ろ姿を発見した。
光沢のある漆黒の髪、日本人離れしたスタイルのいい幼い体。
外を一心に眺めるその姿に、皆川は虚をつかれ慌てて周囲を伺ったが、その子どもの親の姿はどこにも見当たらなかった。 そのことに安堵と疑念を持ち、思わずその子どもの側に近付くと、皆川が声をかけるより一瞬早く、ガラスに反射したその姿に気がついた子どもがくるりと向きを変え、皆川を見上げた。 「こんばんわ、皆川さん」 「やっぱり・・・谷山の」 「優人」 「ああ、そうだ。長男のユート・デイヴィス・・・君だったね」 若干6歳になるはずのその子どもは、やけに雰囲気のある笑みを浮かべ、引きつった顔をした皆川を見上げた。 「ママが皆川さんとレストランでニアミスしたって大騒ぎしていたから、もしかしたらと思ったけど、やっぱり皆川さんもここにチェックインしていたんですね。偶然もここまで重なると気持ち悪いですね」 優人は言い難いことをぬけぬけと言うと、視線を転じて先ほどまで見入っていた外に視界を戻した。 知り合いの大人に見つかってもまるで動揺する素振のない優人に、皆川はあっけに取られながらも声をかけた。 「君のご両親は?」 皆川の質問に、優人は面倒そうに顔をしかめると、まるで彼の父親がそうするようにため息をつき、自分が見ていた先の風景を指差した。怪訝に思って皆川が覗き込むと、指の先は隣接するオフィスビルを指していた。既に人気のないそのビルは黒い鏡を思わせるガラス張りで、そこには先ほどラストオーダーだと入店を断わられたバーの陰がぼんやりと映りこんでいた。 「僕の両親はあそこですよ」 「バー?」 「そう」 「子どもを置いて?」 言外に、無責任な。と、非難交じりの声を上げると、優人はそこで再び嫌そうに顔を顰めた。 「僕は両親の友人の部屋で弟と寝ていることになってるから、別に両親が悪いわけじゃない」 「じゃぁ、その人は君がここにいるって知ってるのか?」 「その人は僕は両親の部屋で寝ていると思ってますよ」 「それじゃぁ・・・」 顔を顰める皆川を眺め、優人は子ども離れした人の悪い笑みを湛えた。 「6歳の子どものふりをすると、やりたいことはだいたいうまくいくんです」 優人はそれだけ言うと、目を凝らしていた外の風景に、よく見えないと悪態をつきながら、額を押し付けていたガラスから顔を離し、皆川を牽制するように冷たく言い放った。 「大人が悪いわけじゃない。僕が少し賢くて要領がいいだけです」
子どもの扱い方なんて知らない。 ましてや、目の前にいる6歳児は本当に子どもかどうかも怪しい。 けれど、良識ある大人として、深夜に見かけてしまった知り合いの子どもを一人にするわけにもいかず、皆川は難しい顔をしたまま優人を見下ろした。ともかく、部屋に戻すのが一番だとは思うが、下手に知恵の回るこの子のことだ。無理に連れて行こうとすれば、自分の方こそ誘拐犯にされかねない。 仕方なく、皆川は優人の横に腰をおろし、深夜の冒険に興じている小さな子どもの顔を覗き込んだ。 「・・・・まだ何か?」 心底迷惑そうに顔を顰める優人に、皆川は苦笑しながら頷いた。 「うまいこと部屋を抜け出して、その目的は両親のデートの覗き?」 「・・・」 「好奇心というには、ちょっとやり過ぎだと思う。バレないうちに部屋に戻っておいた方がいいと思うぞ。ここで会ったことは誰にも言わないからさ」 言われたことが面白くなかったのだろう。優人は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと首を傾げた。 「皆川さん」 「ん?」 「皆川さんこそこんな所にどうして一人で来ているんですか?」 迂闊にも沈黙してしまった皆川を見上げ、優人は愉快そうに口の端をつり上げた。 「俺のことはどうだっていい」 辛うじて皆川が言い返すと、優人は肩をすくめた。 「それなら僕だってそう。皆川さんにはなんの関係もない」 「俺は大人で、君は子どもだ。誘拐されたらどうする」 優人はつまらなさそうに唇を尖らせ、それから闇色の瞳を細め、ゆっくりと落ち着いた口調で呟いた。 「僕は確かめたいだけなんだ」 妙に大人びたその表情に、皆川は飲み込みそうになる息をなんとか吐き出し尋ねた。 「何を?」 優人はそこで考え込むように言葉を切り、厚いガラスに頭をこすりつけた。 さらさらの髪が頬にかかり、顔にオレンジのネオンが映り込む。 その様子はまるで出来のいい映画のように美しかった。 「僕の父親はどれだけ頭がいいか知らないけど、いつも家族を馬鹿にしてるんだ」 「え?」 「ちなみに僕は馬鹿にされるのは本当に嫌い」 どの口がそれを言う?と、皆川は思ったが、懸命にも言葉を飲み込んだ。 黙り込んで耳をそば立てる皆川に、優人はにっこりと優雅に微笑んだ。 「そしてママがないがしろにされるのはもっと嫌い。なのにあの人はいつも仕事仕事って、仕事さえしていればいいみたいな感じで、ママとは口喧嘩ばっかりなんだ。でもママは結局仕方がないって諦めて、あの人を許している。グランパやグランマは夫婦のことは夫婦にしかわからないって言うけど、僕は納得できないんだよね。大人の事情っていうのも、単にごまかしているようにしか聞こえない」 優人は形のいい瞼を閉じて肩をすくめた。 「2人だけだったら、パパはママに優しいのか、それともただ単にママがパパ以外の人を知らないだけなのか、僕は知りたい。それで、ママが本当に幸せなのか知りたいんだ」 「なぜ?」 大人と話しているような錯覚を覚えながら、皆川が質問すると、優人はつぶっていた瞳を見開き、闇色の瞳に揺れる自信をたたえて微笑んだ。
「パパがママを幸せにできない男なら、僕がママをもらうからだよ」
ありふれた夜景の真ん中で妖艶に微笑む少年に、皆川はごくりと息をのんだ。 子どもの言うことだからと、皆川は懸命に自分の常識をかき集め、目の前で悠然と微笑む6歳児の言葉をやり過ごそうとしたが、自然浮かんでくるあまりに危険な予感に、皆川は冷や汗をかいた。 ――― で、また、この子だったらうまいことやっちゃうんじゃないのか? いつまでも幼い母親に大人びた美少年。 フィクションではよくある組み合わせではあるが、現実で、しかも知り合いとなると話は全然別だ。 「でも、パパが第一優先なんだな」 口にしてから気がついて、優人を見ると、見下ろされた少年はバツが悪そうに横を向いた。 その表情から、皆川は自分の思いつきが的を得ていたことを確信し、ほっと胸を撫で下ろした。 何はともあれ子どもの考えることだ。 それにあれほど存在感のある父親であれば、そう思うのも頷ける。 「まぁ・・・・君の父親は優秀だし、かっこいいもんなぁ」 頷く皆川を優人は心底軽蔑するように睨み上げ、首を振った。 「皆川さんって本当は馬鹿?」 「あ?」 「そんな下らないことが理由じゃないよ」 優人は呆れたようにそう言うと、ガラス側のでっぱりに腰をおろし、まだ幼く短い足をぶらぶらと揺らした。
「 ママがパパをまだ愛しているからだよ 」
「ママだって、愛している人の側にいることが一番の幸せでしょう。僕にもそれは邪魔できないよ。僕はママを愛しているからね。でも、同時にママには世界で一番幸せになってもらいたいんだ。その為だったらなんでもする。だから、ママが望むうちはあの人が一番でもしょうがないんだよ」 あっけに取られて沈黙する皆川を見上げ、優人は綺麗な顔を嫌そうに顰めた。 「あの人もママのことは愛しているんだとは思うよ」 「デイヴィス博士?」 優人は嫌そうに頷き、ため息をついた。 「でも、愛している人には優しくするのが当然でしょう。それなのにあの人はそれを全部やってない。少なくとも僕の前でそんなところは見たことがない。いくらママが良いと言ってもそれはあんまりだと思うんだよね。ママは優しくされて、幸せになるべきだと思うんだ。だから、確かめたいんだ。本当にあの人と一緒にいることがママにとって幸せなのか。そして足りないって分かったら、ぼくはあの人からママを取り上げるんだ。文句は言わせない。日本語でなんていうんだっけ?ええぇっと・・・」
" じごう・じとく "
筋の通った話に思わず納得しそうになった皆川はそこで慌てて我に返った。 なにはともあれ、母と息子だ。子ども時代の一時の感情と真剣に取る話ではないのかもしれないが、あまりに大人びたその様子に危機感を感じ、皆川は唸りながら首を傾げた。 「ユート君は谷山・・・・ママの子どもだろ?」 「いい立場だよね。無条件で愛してもらえる」 「 ………… それに、まだ6歳だ」 「すぐ大人になるし、自分の年にさほど不便を感じたことはないよ」 自信たっぷりに微笑む優人に、皆川は白旗を上げたい気分で苦笑した。 「ユート君は」 「はい?」 「いや、・・・・・・・・・・・君は本当にママのことが大好きなんだね」 皆川の言葉に、優人は一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにとても幸福そうに微笑んだ。
嫌がる優人を何とか説得して、ひとまず両親の友人がいるという部屋まで送り届け、皆川はその足で自室に戻ると、ベッドの上に投げ出していた携帯電話を手に取った。 ―――― 博士も大変だな。 苦笑しながら慣れたボタンを押し、リダイアル一番上に表示されたその名前を皆川はしばらく眺め、通話ボタンを押した。 コール音を聞きながら、皆川は恋人の顔を思い浮かべて微笑した。 この電話が繋がったら、まずは上の空だったデートについて謝ろう。そして、後は心を込めて気持ちを告げよう。 面倒臭がって、足元をすくわれたくはない。 愛する人がいる幸せは、実は貴重なものだ。 ついぞ忘れていたその事実に、皆川は背を押されるようにして、コール音が切れるその瞬間を待った。
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言い訳・あとがき 80,000番sisiro様からのキリリク 『意地の悪い運命 その後』 です。 あの(『意地の悪い運命』)後、博士が黙っているはずがないから、その先を読みたい・・・とのリクエストだったのですが、あこの脳内では何かあるはずがないと拒否反応が激しくて、今回は予想された展開にはまったく沿っていませんが、一応その後ということで、博士と皆川ではなく、ジュニアと皆川で展開してみました。 だって、博士、自分の興味の無い人間はかぼちゃにしか見えない人ですよ? 通りすがりの皆川なんかをわざわざ覚えているはずがないじゃないですか!!!! しかも皆川、麻衣にアタックするようなキャラでもないし… = 御大の敵に値しない |
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Please Broeser BACK |