すぎる背中

第1話  イギリス心霊調査協会

 

イギリス人の90%以上がティーパックを使って紅茶をいれる。

 

 

30年前には考えられなかったその現実の、時節の流れに流されるわけではないけれど、やはり日常生活に必要なものは手軽なものが一番だ。

まどかはMARKS&SPENCERの円形のティーバッグをカップに放り込み、どぼどぼとお湯を注いだ。

日本のものより数倍早く色と香りがつくそれを手早くスプーンで掬い出し、ミルクと砂糖を追加してかき混ぜると、見た目は立派なアールグレイのミルクティーになる。

丁寧に茶葉から入れたそれとは明確な差はでるものの、何も飲めないよりはずっとマシだ。

まどかはカップを持ち、自室として使っている研究室から、同じフロアで同業者達のサロン代わりになっているテラスに向かった。

おおよそのイギリス人がティーバッグでお茶を入れるようになっても、午前10時と午後3時のティータイムの風習は未だ根強く生き残っている。どれだけ研究が忙しくても、その時間になると皆が手を休め、思い思いのティータイムを楽しむ。

  

  

「ハイ、マドカ」

「ハイ、シンシア」

「何だかぼんやりしているわねぇ。どうしたの?一緒にカンティーンに行く?」

「サロンでいいわ。持参しているし」

廊下で声をかけてきた同僚の女性に、まどかは自分のカップを持ち上げた。

「疲れている様子ねぇ」

大げさにため息をつくシンシアに、まどかは首をすくめた。

「疲れているってわけじゃないんだけど・・・・なんだかねぇ、最近データ処理で研究室篭ってばっかりでさぁ」

つまらないのよね。と、ぼやくまどかに、シンシアは苦笑した。

「まどかは基本的にアグレッシブだものね」

「そうよう、だからわざわざフィールドワーク選んだって言うのにさぁ。研究室でデータとにらめっこしているなんて、本当に不本意。デスクワークが楽しいのはナルの方なのに!何で私がこっちであの子が現場なのよ!神様って不公平!」

ぷくんと、子どものように頬を膨らませるまどかに、シンシアは仕方がないわねぇと眉根を下げた。

 

 

 

『 Society for Psychical Research 』 ( イギリス心霊調査協会)

 

 

  

森まどかが自身の研究の場として選んだそこは、世界で最も権威ある心霊現象の調査団体の一つと目されている。

まどかはそこでフィールド・ワーク研究所の所長として軽くない責任を背負いつつ、研究を続けていた。

フィールド・ワーク研究所は、主に心霊現象が実際に発生している場所に自ら赴き、その現場でのデータの収集、分析、研究することを目的としていた。

そして、本来であれば、彼女は5人の仲間達とその業務にあたっているはずであった。

チーフのまどか、霊媒師のユージーン・デイヴィス、サイコメトリストのオリヴァー・デイヴィス、メカニックの林興除、そして今一人のメンバーで構成されていたチームは、控えめに言っても大変優秀なチームだったと言える。

しかし、数年前の冬。

メンバーの内、優秀な霊媒であったユージーン・デイヴィスが、遠く異国の地で客死した。

何らかの事件に巻き込まれ、行方不明となった彼の死をいち早く感知したのは、優秀なサイコメトリストであり、彼の双子の弟であるオリヴァー・デイヴィスだった。

オリヴァーはメカニックの林興除を監視役として伴うことを条件に、遠い異国にあって、まどかの祖国である日本に、亡くなった双子の兄を探すために、急遽支部を設け、旅立った。

そして、随分時間がかかったけれど、最終的に彼はたった一人の自分の肉親の亡骸を自らの能力を駆使して見つけ出し、遺骨を持って祖国に帰ってきた。

それが今から3年前の夏の出来事だ。

元々心霊現象における論理分析が専門で、研究さえできればご機嫌だったオリヴァーのことだから、彼はすぐにも本国に帰国し、何事もなかったかのように研究を再開するだろうと周囲の者は踏んでいた。

 

  

   

オリヴァー・デイヴィス。

  

  

  

初めこそ、優秀な霊媒で、明るく、人気のあった兄の影に隠れるようにしてあった彼だが、彼は明晰な頭脳、大胆な行動力、鋭い洞察力、そして周囲の者を省みない極めて不遜な性格をあわせ持った優れた研究者であった。

しかし、大方の予想を裏切って、彼は「日本では面白い心霊現象が顕著に見られる」と主張し、SPR日本支部の継続を申請、そのまま林興除と共に現在まで日本での調査を続行している。

おかげで元々同じチームだったまどかと今一人のメンバーにいたっては、未だ本国イギリスで現場に赴くこともなく、ただ黙々とデータを処理していく作業に追われているのだ。

もちろんそれも研究の一貫だ。しかし、まどかはそもそも部屋に篭ることが嫌いだった。

「あ〜あ、私も日本に行きたい」

思わず漏れた本音に、横でカップを傾けていたシンシアはたまらず噴出した。

「チーフのあなたまでいなくなったら、仕事が回らなくなるじゃない」

「・・・ええ、そうね」

「それでなくても上の方の方々はドクター・デイヴィスの不在にいい顔をしていないんだから」

諌められ、わかってるわよぉと、まどかは力なく反論した。

  

  

 

「あ、森チーフ!」

  

 

  

そこでまどかは受付窓口担当の事務員に呼び止められた。

「よかった、ここにいらっしゃったんですね」

息咳切ってやってきた鶏がらの様に痩せた中年の男性に、まどかは首を傾げた。

「ティータイムですもの。何か急用がありまして?」

にっこりと微笑みを浮かべ尋ねると、事務員は忙しなく咳き込み、それから困惑した表情を浮かべた。

「今、窓口に日本人女性が二人来ているんですけど、彼女達がちょっと変なんです」

「日本人?」

それだけで呼ばれるのは迷惑極まりないと、さすがのまどかも顔を曇らせると、事務員は慌てた様子で弁解した。

「それだけだったらもちろん追い返しますが、少し変な事を言っているようなんです。本当に用があってはいけないと思って、チーフを探していたんです」

「変というと、どういうところがかしら?私と関係あるの?」

「満足に英語が喋れないので、意味不明なことが多いのですが、どうもチーフの名前をご存知の様子なんです。それに・・・・気になることも言っているようで・・・・・とにかく窓口まで来ていただけませんか?」

事務員の的を得ない説明にまどかは首を傾げつつも頷き、カップをシンシアに預けると、事務員に案内するように促した。

事務員は明らかにほっとしたような顔をして、まどかを先導した。

細い廊下を歩きながら、まどかはふと気になって事務員に尋ねた。

「そう言えば、気になることって何?」

まどかの問いかけに、事務員は疲れたように笑った。

「ジョークだと思うんですけどねぇ」

「なぁに?」

「ドクター・デイヴィスにメッセージを預かっているって言っているようなんです」

「ナルに?」

まどかが驚いて尋ね返すと、事務員は首を傾げた。

「あくまでも言っているような感じです。訛りが酷くて聞き取れないんですよ。我々が言っていることの半分もわかっていないみたいですし・・・ドクターと言ったら、ファンとかマスコミとかかもしれませんからね。おいそれとは通さないんですが、相手はドクターが今いる国の人間ですし、チーフの名前も出てきましたから、もしやと思って、まぁ念のため」

事務員はハッキリしない事を言いながら、まどかを客人を待たせていた窓口に案内した。

  

  

  

「ほら、彼女達ですよ」

促されて見れば、セキュリティチェックの前には、明らかに観光客風の若い日本女性が二人、疲れきった表情で立っていた。見覚えのない顔に、まどかは首を捻りつつ、人懐っこい笑みを浮かべて彼女達に話しかけた。

 

 

「こんにちわ」

 

 

異国の地で聞いた耳慣れた母国語に、彼女達はあからさまにほっとしたような表情を浮かべ、にこやかに微笑みかけるまどかに縋るように話しかけた。

「ああ、よかった日本語ができるんですね!」

初めに声を発した女性は、長い黒髪を一本に結んだ大人しそうな女性だった。

そして隣にいた背の高いベリーショートの女性も、緊張のため強張っていた表情を幾分か和らげた。

ベリーショートの彼女の方は、見るからに青い顔をしていて、ともすれば具合が悪そうにも見えた。

「ええ、日本人です。あなたがたは観光でケンブリッジへ?」

続けてまどかが尋ねると、女性二人は複雑そうに顔を見合わせ、曖昧に頷いた。

その様子に疑問を持ちながらも、まどかはゆっくりと安心させるように説明した。

「大学の見学は今受け付けていないのよ。それにここは専門の研究棟だから、オープンカレッジでも見学コースには含まれていないんだけど」

まどかが言うと、ベリーショートの女性は、はっと気が付いたように顔を上げ、まじまじとまどかの顔を見つめた。

その視線にまどかが首を傾げ、笑いかけると、彼女は驚いたような表情を浮かべ、口元を両手で覆った。

「どうしました?」

急変する彼女の様子に、まどかが手を伸ばすと、伸ばされた手を彼女はぐっと握り締め、熱に浮かされたような瞳でまどかの顔を凝視した。

「・・・・まどか・・・・・・・」

突然呼ばれた名前に、まどかが口を噤むと、彼女は慌てて手を離した。

「ごめんなさい!でも・・・・あの、違いますか?」

怯えたような表情に、まどかは首を横に振り、さらに優しく微笑んだ。

「ええ、私の名前は確かに『 森まどか 』です。でも、ごめんなさい。私、あなたのことを覚えていないわ。どこかでお会いしたことがあったかしら?」

まどかの問いかけに、背の高い女性は困惑を重ねた表情で力なく首を振った。

「いいえ、初対面です」

「でも、あなたは私の名前を言い当てたわ。・・・・学会か何かでご覧になってる?」

「いえ・・・でもないです。だって、第一ここが何なのか今の私にはわかっていないんですから・・・」  

 

 

「ここが何なのか、わかっていない?!」

 

 

これにはさすがのまどかも驚きを隠せず、高くなった声に2人の女性は顔を見合わせてさらに小さくなった。

場所の意味もわからず、彼女達はここにやってきて、自分とそして様々な面から衆目を集める部下の名前を口に出すなんて、到底偶然とは思えない。

――― この人たちは何を狙っているの?それとも単なるメッセンジャー?英語もできないのに?

おのずと警戒を強めながら、まどかはゆっくりと説明した。

「ここは、日本ではケンブリッジ大学って呼ばれている学校のうちの一つ、トリニティ・カレッジです」

ケンブリッジという単語は聞き覚えがあるらしく、彼女達はやっぱりそうなんだと、呟きながら頷いた。

「私と、あなたがたが先に事務員に言った人物は、ここの研究員なの」

「オリヴァー・デイヴィス?」

「ええ、そうね」

「良かった。ちゃんと聞き取れていたみたいね」

 ロングヘアの女性が呟いた不思議な感想に、まどかはゆっくりと尋ね返した。

「聞き取れた?」

「あ、はい」

「メッセージを預かっているそうだけど、それはつまり外国人だったということかしら?」

これにはベリーショートの女性が頷いた。

「だと思います」

「その人にここの場所も教えてもらったの?」

「教えてもらったというか、足が勝手に動いたっていうか・・・」

ひどく曖昧な説明に、まどかはため息をつき、彼女達が言った支離滅裂な単語を羅列した。

「つまり、外国人から私と彼の名前を聞いて、メッセージを預かった。そして勝手にここに来たというわけね」

「はぁ・・・・」

「じゃぁ、メッセージを受け取るわ。何かしら?」

挑むようなまどかの声色に、対面した女性はその表情にさらに困惑の色を深め、それから意を決したように顔を上げた。

「彼女があなたと、オリヴァーデイヴィスに会いたいって」

日本語にしてもあまりに要点のはっきりしない返答に、まどかはため息をついた。 

「彼女って?」

それに対して、ベリーショートの女性ははっきりと、しかし、不可思議な返事をした。

 

  

 

 

 

「 私の中にいる誰かです 」