すぎる背中

第20話  一緒に行こう

 

ねっとりとした霧のように立ちこめる白い靄の先で、2人は絡み合い、そしてジラは執拗に麻衣の首に腕を回し、殺意で瞳をぎらつかせていた。那智は制止する声も耳に入らず、廊下に飛び出すとガラス扉を勢いよく開け放った。 

「ジラ!もうやめて!!お願いだから話を聞いて!!」

叫び声は不均衡に崩れる空間の中で、驚くほどよく響き、その声は麻衣とジラの意識にも届いた。

その悲鳴に、麻衣の首に手を掛けていたジラが、グンと、ありえない角度で那智の方に首を向けた。

落ち窪んだ目がぎらりと瞬き、にたり、と、口元が裂けていく。

「ひっ・・・」

あまりの禍禍しさに、那智の喉が鳴った。

ジラは麻衣に伸ばした腕を躊躇いなく振り払うと、新しい得物に飛びつく獣のように、矢のようなスピードで那智にめがけて飛びついてきた。ちりちりに縮れた赤い髪がぶわりと広がり、ジラの顔がその陰に隠れた。

「那智!」

背後から滝川の怒声が響いた。

しかし、恐怖に飲まれた那智は、避けることはおろか、目をつぶることすらできなかった。

   

   

  

――――― ぶつかる!! 

 

 

 

 

那智は反射的に衝撃を覚悟した。

 

 

 

 

しかし、

 

 

 

 

那智の身体はぐんっと、滝川に力任せに引っ張られて後ろに傾き、寸前まで近付いていたジラの身体は、背後から突然伸ばされた細い腕によって、強引に反対方向に引っ張られた。

その勢いで派手な音と共に滝川と那智は廊下に倒れ込んだ。

固い板張りの床に投げ出され、その衝撃に那智を顔を顰めて俯いた。そして、頭上から発せられた声を聞いた。

  

『 もういいでしょう。俺たちは死んだんだよ 』

 

突然発せられた声に、那智と滝川は同時に目を見開き、廊下に倒れ込んだ姿勢のまま、なりふり構わず顔を上げた。

2人の視線の先には、紺色の制服を纏った細身の少年が、暴れ狂うジラに圧し掛かっていた。

 

『 この人達は俺の大事な人なんだ。これ以上危害を加えるなら、俺が地獄の底まであんたを引き摺り落としてやる 』

  

歪んだ空間の中で、懐かしい声が昔と同じ生意気な口調で空気を震わせた。

聞きたいと望んでやまなかった痛ましいまでに懐かしい声。

「さ・・と・・・」

那智は思わずその" 彼  "の名前を呼びかけた。が、それは後ろから那智を抱きとめていた滝川の両手で遮られた。

苦しくて目じりに涙を浮かべながらも那智は必死にもがいたけれど、滝川の拘束は強く、びくともしなかった。那智は咄嗟に口を押さえた滝川の両手を噛み、力任せに顔を上げて滝川を見上げた。

しかし、滝川は噛まれたことも気がつかない様子で、厳しい表情のまま正面に立つ少年を睨んでいた。そのあまりに険しい表情に、那智は思わず抵抗するのも忘れて息を飲んだ。

その2人の様子を眺め、" 彼  "は愛らしい顔を僅かに歪め、細く微笑んだ。

 

『 でも、那智先輩が願っているから、できたら君には一緒に向こうに行って欲しいね。大丈夫、一緒に行ってあげるよ 』

 

" 彼  "を中心に柔らかい光が辺りを包み、そのまぶしさに那智は思わず瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

『 諦めて、許して、受け入れて ―――――――― 手放そう 』
  

 

  

 

 

   

 

瞼の裏にまで感じる強い光の渦の中、懐かしい声だけが柔らかに告げた。

すると辺りを包む空気が大きくたわみ、次の瞬間、まるで爆ぜるような衝撃が波のように押し寄せた。

そうして気がつくと、淀んでいた空気は一掃され、那智と滝川の前から、ジラと " 彼  " はきれいに姿を消していた。

 

 

 

 

あまりの事態の急変に、那智が呆然としていると、背中に固い頭が擦り付けられる感触を感じた。

「法生?」 

両手で抱きかかえられ、背中に頭を押し付けられては振り返ることもできず、那智は何もなくなった中庭に顔を向けたまま、背後の滝川に声をかけた。

しかし聞こえていないのか、両腕の力は弱まらず、逆に強くなっているようだった。

気恥ずかしい体勢ではあったが、胸に込み上げるものの方が強くて、那智は無理に滝川を振り切るのをやめた。

「あれって、あの子が私達を助けてくれた・・・・ってことだよね。ずっと見ててくれたのかな?」  

那智は躊躇いがちに口を開くと、びくりと震えたその腕に両手を伸ばした。

「とっても綺麗な幽霊だったね」

そして両手に力を込め、那智はずっと心に引っかかっていた憂いを声に出した。

 

  

 

「自殺者はあんな綺麗な幽霊にはなれないよね」 

 

 

 

背中に熱いため息がかかり、その息は苦笑に代わった。

「お前らは俺が守ってやるって言ってたのに、逆に助けられちまったな」

その軽口を、那智は笑おうと口の端を釣り上げたが、それは背後から聞こえてきた低い嗚咽にかき消された。

  

 

 

 

 

 

 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  

  

  

  

  

同時刻、ナルは軽く触れていた麻衣の掌が本人の意思で動くのを感じた。

無防備なトランス状態に入った麻衣の変化に意識を集中させていたナルは、その僅かな変化に細くなっていた意識の先を拡散させ、顔を上げた。

僅かに首筋が痺れていた。

だるいと訴える体が、長かったであろう時間の経過を匂わせ、ナルは僅かに顔を顰めた。

  

―――― 手間取っているな・・・

  

長時間のトランスは、精神に大きな負担をかけ、ともすれば、そのまま意識が帰ってこなくなることもある。

特に今回の相手はナル自身に執着し、麻衣に危害を与えようとした女だ。

本音を言えば麻衣がその死者に情けをかけてやる神経をナルは理解できなかったし、理解してやろうという気もなかった。

ジラという死者の怨念に対して、ナルは何の感慨も持っていなかった。

自分のあずかり知らない所で、勝手に執着されることは気分のいい話ではないが、同様の事態は過去にもままあった。

だからといって、自分に何ができるわけでもないし、自分に悪いところがあったなどとは露ほども思っていない。

それは相手のメンタル面での問題でしかないと、ナルははっきりと割り切っていた。

その為に特異な現象を記録できないと分かった今、この事象にまつわること一切に、ナルは全く興味がなかった。

たが、他人には自分は感知できない感情領域があり、特に麻衣がそれを殊の外重視している事は知識として理解していた。

だからこそこの浄霊をナルは指示したのだ。

少なくとも、ジラに同情したための決断ではない。

このことを知ったら麻衣は呆れて、また、泣くのかもしれないと、ナルは今もってなお理解できない麻衣の心境を思いやり、うんざりとため息をついた。

人間の心など、面倒で仕方がない。馬鹿馬鹿しくて、不毛だとも思う。

けれど、と、ナルは僅かに自嘲し、今正に意識を取り戻そうとしている麻衣を見下ろした。

他人にどう思われても構わないと信じて疑いもしなかった自分でさえ、拘る人間ができた。心は変わる。そして、そうした感情とすれ違いこそ人の業というものかのかもしれない。

 

――― 人間とは不条理で我侭な生き物だな。

  

受け入れがたいほど無様だと、ナルは心底忌々しく思い、ため息をついた。

その時、麻衣の頬がぴくりと動き、かすかな瞬きと共に涙が頬を伝い、続けて、潤んだ鳶色の瞳が開かれた。その変化を見逃さず、ナルは身を乗り出して麻衣の耳元に口を寄せ、呼びかけた。

 

「麻衣」

「・・・・・・・・ナル?」

 

ようやく開いた鳶色の瞳は、しばし焦点の合わない様子で周囲を伺ったが、すぐに光を取り戻し、傍らのナルを見返した。

「どうだ?」

刺激しないように静かに尋ねると、麻衣は僅かに困ったように微笑んだ。

「ジラは浄霊したよ」

答えを聞いておきながら、意外そうな顔をしたナルを見上げ、麻衣はこみ上げる涙をぬぐいながら微笑んだ。

「予想通りだったけど、ジラは最後まで私の話は聞きたくなかったみたいで、全然取り合ってくれなかった」

「・・・」

「でもね、ぼーさんが止めるのに、那智さんが必死に叫んでくれたから」

「山上さんの説得に応じた?」

麻衣は嬉しそうに微笑みながら、首を横に振った。

「ぼーさんと那智さんの昔の友達が助けてくれたの。ぼーさんと那智さんを傷つけるのは許さないって、守ってくれたんだよ。そしてね、ジラに一緒にあっちへ行こうって誘ってくれたの」

「・・・それは、何者だ?」

麻衣は僅かに視線を彷徨わせ、それから名前を呼ばないように気をつけて説明した。

「こっちに来てから、夢で見た人。ぼーさんと那智さんの後輩だと思う。場所が良かったのかな?制服姿で出てきたよ」

「ふ・・・ん」

「ジラはプライドが高かったから、私じゃ絶対納得できなかったんだと思う。でも寂しかったんだと思う。狂っちゃうくらいに、本当に寂しかったんだと思う。だから全然関係ないその人に言われて頷いたの。やっと声を聞いてくれたの。本当はもっと早くわかっていたのかもしれない、でも、相手が私じゃダメだったの。・・・・・・・ううん、もしかしたら、彼じゃないと駄目だったのかもしれない」

興奮状態の麻衣に、ナルは僅かに眉根を上げた。

「すごかったんだよ?ぼーさんと那智さんの大事な・・・・大切な友達」

麻衣は大粒の涙を流しながらも、満面の笑みを浮かべ呟いた。 

 

 

 

「 びっくりした。人ってあんなにも強くてやさしくて、きれいなものにもなれるんだね  」 

 

 

    

朗らかに微笑む麻衣を見下ろし、ナルは無表情に麻衣の髪をくしゃりと掻き混ぜた。 

 

 

  

 

 

  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

  

  

  

  

 

その後、麻衣の霊視報告は真砂子の霊視に裏打ちされ、調査は終了した。 

 

「それじゃぁ、那智さん。何かあったらすぐ電話してね」

「はい、本当に色々ありがとうございました。まどかさんもお気をつけて」

 

浄霊を終えた翌朝早く、SPR一行は大量の機材をバンに詰め込み、そろって車に乗り込んだ。

運転席に乗り込んでから、滝川はふと思い立って、前庭に立つ那智を呼び止めた。

 

「那智」

「ん?」

 

振り返ったその顔を見上げ、滝川は僅かに口篭もったが、直に首を振り、いつもの気安い笑みを浮かべた。 

「・・・・いや、何でもない。それじゃぁな。昨日まで憑依されていたんだから、あんまり無理はすんなよ」

何とはなしに俯き、同じように口をつぐみそうになった那智は、そこで思い直して顔を上げた。  

「法生!」

「あ?」

「今度さ、一緒にお墓参り行こうよ」

那智の言葉に滝川は驚いたような顔をし、それから首を傾げ、まぶしいものを見るように目を細めて頷いた。

 

 

  

「ああ、必ずな」

  

 

 

  

 

- END -

 

  あとがき