すぎる背中

第3話   神社の娘

 

 

大学時代の友人は、社会人留学で訪れたロンドンの地で生涯の伴侶となる男性と知り合い、出会ったその地で幸福な花嫁になった。ロンドン市内の教会で行われたその結婚式に、山上那智は共通の友人である伊藤朝子と共に出席した。

結婚式とその後のパーティーは正味一日で終わるのだが、せっかくイギリスまで行くのだからと、那智と朝子はそのまま日程を調節し、ロンドン観光を計画していた。2人とも英語はまったくというほど出来なかったけれど、電子辞書とその場の気合で大きなトラブルもなく旅行日程は進んでいた。

しかし、めぼしい観光地を巡り、博物館を堪能し、旅行日程も残すところ後2日となった晩に、那智は首筋に電気が走るような鋭い痛みを感じた。ピリピリと電気治療でも受けているかのような微弱な電流を感じる痛み。

それはホテルに帰ってシャワーを浴びても収まらず、日本から持参した湿布を首筋に張りつつ、那智は直感的に塩を購入し、ホテルのメモ紙を使ってベッドサイドに盛り塩を作った。

その様子を眺めて、同室の朝子は那智の肩をもんだ。

「どうしたの、なっち?ここ何かいるの?」

学生時代からの友人である朝子は那智の体質をよく知っていた。だからと言って那智を面白がったり、下手におだてるようなことはしない朝子に、那智は微笑み、何でもないことのように返事をした。

「違うよ。ここには何もいない。ただ、昼間にどこかで何か拾ってきちゃったみたいなの」

「ふぅぅん、古い場所ばっかり行ったもんね。背中痛い?」

「ううん・・・今は首が痛い」

「盛り塩だけで大丈夫?」

「大丈夫だと思うんだけどねぇ。まぁ多分平気よ?どれだけしんどくったって、ここにいるのは明後日までだもん。日本に帰っちゃえば、お父さんにお清めしてもらえばいいんだもん」

明るく暢気な那智の返事に、朝子はふんわりと笑った。

「神社の娘はこういう時便利ねぇ」

「お父さんに霊感は全くないんだけどね」

「ははは、それでも祓えればいいじゃない」

「まぁね」

那智と朝子は互いに笑いあいながら、長旅で疲れた身体をベッドに静めた。

 

 

小さな頃から、那智には霊感があった。

 

 

実家が神社だと言うと、事情をよく知らない人々はそれだけで何故か納得してくれたものだが、実際に那智の家族で幽霊をみる者は曽祖父母の代まで遡っても誰一人いなかった。

血筋とは関係なく、たまたま那智には見えた。それだけと、那智は思っている。

実家の神社は既に形骸化していて、そこに何か霊感あらたかなものを感じることはなかった。

けれど、祖父や父親がきちんと省略せずに神事を行えば、その手順通りに那智がつれてきてしまった何かは消えた。

現代の神社仏閣なんてそんなものなのかもしれないと那智は考え、何かあればお祓いしてもらい、何とか自分の見える能力に折り合いをつけながら生活していた。

――― だから、あんまり知らない他所の土地には来たくなかったんだけどなぁ。ロンドンって聞いて欲が出ちゃった。

冷たいシーツに頬を押し付けながら、那智はつらつらと昔のことを思い出した。

一番大変だった時期は高校時代だった。

あの頃は今よりずっとクリアに世界が見えて、見えなくてもいいものまでよく見えた。

そして自分が見ていると気がついたたくさんの"何か"は、那智の存在に気がつくとどこまでもどこまでもついて来た。

――― でも、あの頃はお守りがいたからな。

那智はそれを思い出し、小さく微笑んだ。

高校時代、那智のクラスメイトには、那智と同じように霊感を持つ少年がいた。

彼は那智よりもずっとタフで、那智が"何か"と怯えていたものに対しても少しも臆することがなかった。

 

「こんなのは気合でなんとかなるもんでしょ」

 

そう言って、ひどい"何か"が那智に取り付くと、手掴みでそれを引き剥がしてくれたりした。

何から何まで常識外れで、根っから明るい少年は、つい暗くなりがちな自分にたくさんの元気をくれた。

――― もう会えないだろうけど、会いたいなぁ。

那智は楽しかった思い出に微笑みながら、眠りに落ちた。

 

 

 

 

   

 

  

 

 

 

「・・・・ち!」

 

「・・・・なっ・・・・ち!」

 

その晩、遠くから自分を呼ぶ声に、那智はまだ眠り足りない眼をようやくの思いで開いた。

見上げれば、そこには蒼白な顔をした朝子が必死の形相で自分を揺さぶり起こしていた。

「あ・・・・朝子?」

「なっち!」

那智がしっかりと起きると、朝子はぼろぼろと泣きながら那智に抱きついて来た。 

「うぇぇぇぇぇん、こ、怖かったよぉぉ」

「え?何?どうしたの?朝子?」

驚いて右手を上げようとし、那智はずしりと泥水でも吸い込んだように重い右手にぎょっとした。

気がつけば、全身汗まみれで、首筋の痛みはもはや疑いようもないほどに悪化し、頭を持ち上げようとすると、偏頭痛のように痛んだ。

那智に覚えがないことが分かると、朝子は顔を蒼白にして、ついさきほどまでの那智の様子を説明した。  

 

 

那智と朝子が眠りについてしばらくしてから、朝子は隣のベッドから聞こえる苦しそうな寝息に気がつき目を覚ました。

眠い目を瞬かせながら、朝子が那智の眠るベッドに顔を向けると、那智は苦しそうに胸をかきむしりながらベッドの上でもがいていた。

慌てて近付き手を伸ばすと、苦しんでいた那智はぱっと目を開き、天井の一点を見つめながら、早口の英語で何かをまくしたてた。朝子にせよ、那智にせよ、英語はまるでできない。それなのに、身体を硬直させてまくし立てる那智の言葉は淀みなく、それはまるっきりのネイティブのように聞こえた。

「那智!」

朝子はそのあまりの異様さに怯えながらも、必死に那智の身体を揺すった。

すると、怖いように全身を張り、硬直していた那智の首がぐるりと、朝子を見据えた。

恐怖で朝子が目を見開くと、そこで、那智は金切り声を上げて叫んだ。

「I ・・・・! ・・・・!・・・・・・!・・・・・ジ・・・・・バー」

必死に耳をそばだてたが、朝子の耳には単語すら聞き取れなかった。

それでも何度も繰り返される同じフレーズの中から、朝子は辛うじて聞き取りやすかった三つの単語を拾った。

 

" ケンブリッジ "

" まどか "

" オリヴァー・デイヴィス "

 

それ以外にも那智は早口の英語で何事かを絶叫し続けたが、英語に疎い朝子にはそれ以上理解することはできなかった。

そうしているうちに、那智は喉をかきむしり、突然声を上げるのをやめたかと思うと、ベッドの中で意識を失った。

そこで朝子は慌てて那智の頬を叩き、ぐったりと疲れ果てている那智を揺さぶり起こしたのだ。

  

  

朝子の話を聞き、那智は顔を顰めた。

身体は泥のように重く、その感触は自分の中に何者かがいたことを暗示していた。

けれど、朝子が言うような記憶は全くない。

「すっごい怖かったよ。何だっけ?ほら、呪われた海外の映画」

「・・・エクソシスト?」

「そう!それ!あれに出てくる女の子みたいだったのよ!なっち、こんなこと前にもあったの?」

怯えきった朝子を見つめ、那智は力なく首を振った。

形骸化されているとは言え、神社の守りを持っているはずの自分がここまで完全に意識を失うほど"何か"に憑依されたことは今までなかったことだった。せいぜい目の前に現われて、自分におぶさり、体調を悪くさせるくらいのはずだったのだ。

――― これは、ちょっとまずいのかもしれない。

那智は朝子をこれ以上怯えさせないためにも、内心の動揺を隠しつつ、朝子が何とか聞き取った三つの単語を見比べた。

「まどか・・・って、コレ、日本人の名前よね」

ホテルのメモ帳に走り書きされた単語に指を乗せ、那智がつぶやくと、朝子は自信なさそうに頷いた。

「そう聞こえたんだけど、もしかしたら全然別の単語かもしれない。早口過ぎて全然ヒアリングできなかったの」

「でも、オリヴァー・デイヴィスっていうのも人名よね?朝子、この人の名前聞いたことある?」

「ないわよ。那智こそ知らないの?」

「知らない」

長い黒髪をかきあげながら、不安そうな瞳で自分をみつめる朝子を、これで、朝子との縁も切れるかもしれないと、那智は別の不安を抱えながら見つめ、ため息をついた。けれど、イギリスに滞在できるのは泣いても笑っても後2日だ。

「ケンブリッジって、あのケンブリッジ大学のある場所よね?」

「ああ・・・多分、それはそうじゃない?」

「私、明日ケンブリッジに行ってみる」

「ええ?!」

「何か解決策があるかもしれないでしょう?」

「あ、危ないわよ!」

「うん、何かあったら速攻帰る。どっちみち明後日の午後の便では日本に戻るんだし」

「・・・・」

「無理に付き合ってとは言わないよ?帰りの飛行機では合流できるんだしさ」

強引にでも我を通そうとした那智に、朝子は煩わしそうな表情を浮かべたが、見知らぬ海外で一人きりでいる恐怖よりは、見知らぬ恐怖の方がまだマシとみえて、渋々ではあったが那智のケンブリッジ行きに同意した。

 

 

 

 

 『 Cambridge 』(ケンブリッジ)

 

 

 

 

ロンドン市内のリバプール・ストリート駅から鉄道で1時間、 さらに駅から1.5km行った先のその土地のことなど、那智はもちろん何一つ知らなかった。世界有数の大学、ケンブリッジ大学があるであろう事くらいがぼんやりとイメージできたが、それ以外のことなど想像すらできないでいた。

それなのに、その地に辿り着いた瞬間、那智の胸に押し寄せてきた感情は紛れもなく「懐かしさ」と「達成感」だった。

――― これは本格的に憑かれちゃったのかも。

自分の意志とは反して、先へ先へと進もうとする身体をなんとかいなしながら、那智は心が思うままに街を歩いた。

ケンブリッジ大学のあるケンブリッジと言っても、この地には単純に一つの大学があるわけではない。

メインストリートになるトリニティ通りとキングズ通り沿いだけでも、セント・ジョーンズ・カレッジ、トリニティ・カレッジ、キングズ・カレッジ、クィーンズ・カレッジ、ダウニング・カレッジが建ち並んでいる。

一般的には現存する32のカレッジを総称して、ケンブリッジ大学と呼んでいる。

それが一所に集まった場所がケンブリッジと呼ばれる学都なのだ。

その中を那智は迷うことなく突き進み、一つの大学の前でその足を止めた。

胸苦しいような寂寥感と焦燥感がこめかみの辺りを圧迫した。

――― なんだか、泣きたいような気分だわ・・・

那智はこめかみを摩り、どんどん引きずられていく感情を無理に押さえ込んだ。このまま乗っ取られる訳にはいかない。

「ここが・・・・どうかしたの?なっち?」

恐る恐る尋ねてくる朝子を見遣り、那智は吐き気を堪えながら頷いた。

「多分ね。ここに何かありそうな気がする」

「ここって、多分大学よね?ってことはケンブリッジ大学ってことかしら?」

「かもしれないね」

「ねぇ大丈夫?さっきよりずっと顔色悪くなってるよ?」

心配げな朝子に、那智は苦笑した。

「う・・・ん。何か解決するかもって思ったんだけど、多分、私何かに憑かれてるわ」

「取り憑かれているってことよね?」

「間違いなくね。もう言い切れるわ。元々私憑依体質なのよ。前にもこういうことと似てることはあったから」

「うん」

「でもここまで自己主張が激しいのは初めて。その憑いている人がここに来て、私の中で暴れしてるのよ」 

「ここに来たかったのかな?それとも来たくなかったのかな?」

「来たかったに決まってるじゃない!だからわざわざそうなるように仕向けたのよ!」

思わず飛び出した大声に、朝子は驚き、那智は忌々しそうに舌打ちした。

どうも感情のコントロールが難しい。

那智は何度か深呼吸し、持参した食塩を口に含み、ペットボトルの水でそれを飲み下した。

気休め程度にしかならないとは分かっているが、それでも塩は確かに霊障を抑える効果がある。

それで何とか気を落ち着けると、那智はきゅっと顎を引いた。

「じゃ、まず入ってみよう」

「ここに?入っても大丈夫なのかなぁ?」

「駄目でも入るの。そうしないと何も分からないもの」

そして、那智と朝子はケンブリッジ大学の中でも名高いトリニティ・カレッジに、そうとは知らず足を踏み入れた。