すぎる背中

第8話  丸まった背中

 

さやさやと、風が木の葉を揺らしていた。

しつこく大地を汚していた真っ黒な残雪もようやくその姿を消し、その中を縫うように一台のバイクが細い山道を抜けていく。

そのエンジン音に顔を上げると、予想通りに視界の端に2人乗りした中型バイクが飛び込んできた。

 

「先輩!遅くなりました」

 

バイクが止まるか止まらないからのタイミングで、後部座席から跳ねるように飛び出した一人は、フルフェイスのメットを脱ぎながら足早にこちらに駆け寄って来た。乱暴に脱がれたメットの下には真っ黒な短い髪が覗き、正三角形を思わせる愛らしい造りの顔がにっこりと笑みを作る。その背後でバランスを崩したバイクを何とか立て直し、疲れたような息を吐いた運転手が怒声を上げた。

「おい、コラ!すぐに降りんなって何回も言っているだろうがよぉ」

「えぇー、だって那智先輩待たせちゃったわけだし」

悪びれることなく先を行く相手に、運転手はバイクにまたがったまま悪態をつき、次いでメットを脱いだ。

明る過ぎる茶色の髪は、脱色のし過ぎのようにも見えるので、これが彼の天然の髪色であることを知るものは少ない。

その運転手は茶色の髪をかきあげ、にんまりと悪びれる様子のない笑みを浮かべた。

「よぉ、那智。遅くなったな」

「那智先輩、滝川先輩が待ち合わせの時間に遅れたのがそもそもの原因っすからね」

「しょうがねぇべ〜、寝過ごしたって言ったろうがよぉ」

「そんなの威張れた理由じゃないっしょ」

「お前ねぇ、仮にもこっち受験生よ?先輩をいたわってやろうってあったかぁぁぁい気持ちがないんかい?」

じゃれあうような2人に、"私"は堪えきれずに噴出しながら、近寄ってきた運転手の頭を小突いた。

「なぁにが受験生よ。法生は高野山に篭るってもう決めたんでしょう?本物の受験生を前にしてよくもそんなことが言えるわね!」

「え?!先輩マジで坊主なんの?」

弾かれたように法生を見上げる後輩に、法生はまぁねっととぼけたような顔をした。

「やっぱりさぁ、気持ち悪いじゃん?何だかしんねぇもんにいつまでもこうやって絡まれるってのも」

そしてやおら私の右肩に手を伸ばし、まるでそこに張り付くゴムを掴むように手を握った。

しかしその手はむなしく空を切り、すぐに私の右肩から背中はぴりぴりと静電気が走るような違和感が復活した。

「逃げられたか・・・」

ちっと舌打ちする法生に、後輩はケラケラと笑い声を上げた。 

「へったくそ」

法生は掴みそこねた手をぐっぱぁしながら手元に戻し、遠慮なく馬鹿にした後輩の頭を叩いた。

「まぁねぇ、こんなだからよ。ちゃぁぁんと対応ができるようになればいいわけだろ?さすがに本山だったら、うちの生臭坊主よりちったぁマシな坊主もいるだろうからよ。修行して、色々教わってさ、もう少しまともに対処できるようになろうかなって思ったわけよ」

カラカラと笑う法生に、私は不自然にならないように馬鹿にした素振で尋ねた。

「修行ってことなら、何年高野山にいることになるの?」

「さぁねぇ・・・そのへんはまだよく聞いてない」

「はぁ?!先輩何ぬけたことやってんの?」

「お前ねぇ、さっきから生意気よ?いいじゃんよ。わかるまで山にいれば。わかったら下りる。それだけだろ?」

法生はそれだけ言うと、私が腰かけていた前庭の縁側にどかりと腰をおろし、ジャケットの内ポケットからマルボロを取り出した。

「そしたら、那智の親父さん頼らなくても、俺が2人を守ってやるよ」

一拍の間があって、私たちは2人がかりで法生を笑った。

「うっそくせぇぇ!」

「ばーか、ばーか、ばーか」

「先輩に守られるようなら俺も終わりじゃね?」

「余計なお世話!自分の身くらい自分で何とかできるわよ。法生こそおかしなのに憑依されないでよね。迷惑だから」

「おめぇらねぇ・・・」

法生は咥えたばかりのタバコを噛み潰すように、苦笑いした。 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆ 

 

 

 

 

夢で見た通りに麻衣が前庭を望む縁側に行くと、偶然にもそこでは夢でみた姿より年をとったかつての少年が、同じように背中を丸めてタバコを吸っていた。

朧月の月光を浴びたその姿は、夢見た時のものより儚く見えて、麻衣は堪らず声をかけた。

「ぼーさん」

振り返った滝川は驚いて目をむいたが、すぐにいつもの柔和な表情に戻り、麻衣を手招きして呼んだ。

「どした麻衣、何かあったか?」

麻衣はそのいつもと変わらぬ滝川に安堵しながら、闇雲に不安になった自分を恥じるように首を横に振り、滝川のすぐ横に膝を丸めて座り込んだ。

「どもしないよ?綾子の護符が効いているのか、那智さんもまどかさんと一緒の部屋で熟睡してる」

「まどか嬢と一緒って、お前さんも一緒のはずだろ?こんな所で油売ってるとまぁたナルにどやされるぞ」

滝川に指差され、麻衣はやにわに顔を青くした。

ここに来るまでそんなことはすっかり忘れていたのだろう。

そのいつまで経っても変わらぬ様子に滝川は苦笑しながら、麻衣の蜂蜜色の髪を梳いた。

「何だ?何があった?」

麻衣はそのまま一時の内にくるくると表情を変え、それから酷く申し訳なさそうに肩を丸めた。 

「あの・・・ね」

「ん?」 

「ごめん」

先手必勝とばかりに謝る麻衣に、滝川は口の端をつり上げ、首を傾げた。

「どうしたぁ、娘は父さんに怒られるようなことしたのかぁ」

「・・・」

「ナルと付き合う以上に父さんを驚かせるのは至難の技だと思うんだがなぁ」

すらりと嫌味を込めてのたまう滝川に、麻衣は嫌そうに顔をあげ、その表情を見て小さく笑った。

蕾がほころんだようなその笑みに、滝川はしてやったりと頬を緩ませ、怒らない、驚かない、疑わないと、3つの約束を口にした。

それにつられるように麻衣は頷き、ついさっき自分が見た夢を包み隠さず滝川に話した。

「多分高校生の頃だと思う」 

「ま、そうだなぁ・・・その話だと多分高3ぐらいだろうなぁ」

「綾子とか真砂子と一緒に眠っても、こんな風にその人の記憶を見たことなかったんだけど・・・・これって那智さんとぼーさんの記憶だよね?見ようと思ったわけじゃないんだけど、偶然夢で見ちゃって・・・言わなきゃいいんだろうけど、なんか、覗き見しちゃったような気がして、申し訳けなくってさぁ」

まぁ、気分のいい話じゃねぇな。

滝川は素直にそう言うと、短くなったタバコをもみ消し、そのまま縁側の外に足をぶらりと投げ出したまま、上半身を仰向けにして寝転がった。

「でも、俺は麻衣のことを知ってるから大丈夫」

「・・・うん」

「麻衣もそれがわかってるから、那智じゃなくって、俺に言い訳しにきたんだろ?」

顔を赤くして頷く麻衣に、滝川は懸命だと、微笑し、何でもないことのように呟いた。

「確かにこの話題は俺には言っていいけど、那智には言わないでもらいたいなぁ」

麻衣が首を傾げると、滝川は少し困ったように首を傾げた。

「少しさ、その時の風景って、俺と那智にとっては痛いんだよね」

「痛い?」

「ああ」

麻衣はそこでこくりと息を飲み、不自然にならないように慎重に声を発した。

「もしかして、那智さんってぼーさんの元カノだったの?」

しかし、対する滝川の答えはあっけなかった。

「ちゃうよ」

「違うの?」

「違うね。俺たちは麻衣が夢にみたように、3人で一組だったの。恋人とかそう言う仲間じゃなかったなぁ」

あっさりと否定する滝川に、麻衣は顔を曇らせた。

―――― それは、ぼーさんがそう思っていただけなんじゃないのかなぁ。

那智視点の夢に感情を引き摺られた麻衣には、滝川のセリフは腑に落ちなかった。

夢の中は、言いようもないほど、どうにも切ない感情が満ち溢れていた。

そしてその視界を通して見えた、まだ幼い滝川もまた、麻衣がこれまでに見たことのない表情をしていた。

―――― あれは恋でしょう。

不満げに黙り込む麻衣の横で、滝川は何かを懐かしむようで、恐れるような瞳を瞬かせ、僅かに口篭もり、それから射るように天井を見上げ呟いた。

「その後輩さ、その後すぐにバイクで事故って死んだんだよね」

「え?」

「山道でスリップしてさ、そのままカーブにつっこんで、バイク本体はガードレールに引っかかったんだけど、本人はその下をすり抜けるようにして谷に落ちたんだ。台風が近付いていて・・・すごいどしゃ降りだったから、悲劇だって皆が泣いたけど、その事故死を不思議がるヤツはいなかったな」

含みのある言いように麻衣が黙り込むと、滝川はそのまま頭を揺らし、真摯な様子で自分を見つめる麻衣を見上げた。

「あいつはその少し前に俺たちに言ったんだ」

 

 

  

『 自分が死んだら、自分の名前はもう呼ばないで欲しい 』

 

 

 

「俺と那智に呼ばれたら、さすがの自分でも未練が残って居座ってしまいそうだから、頼むから呼ぶなって言ったんだ。そしてその直後に死んだんだ」

「それは・・・」

麻衣が開こうとした口を、滝川は左手で軽く覆った。

「言わなくていい。多分麻衣が考えるようなことは、ずっと前にみんな考え尽くしているよ。色々考えるのは、多分、みんな一緒だ。あいつはわかっていたんだじゃないか、とか、あれは自殺だったんじゃないかとか、気がつかなかったのか、止められたんじゃないかとか色々、本当に色々思いついた。でも、死人に口なしだ。実際はわからんよ。俺も那智もあいつの最後のお願いだけはちゃんと守った。だからとは言わんけど、俺たちは一回もあいつの姿を見なかった。声も聞かなかった。あいつは残らなかった」

俺たちは3人で一組だった。と、滝川は繰り返した。

「あいつがいなくなって俺と那智もぎくしゃくしちまってな。こういう機会がなかったら、多分もう二度と会わなかっただろうよ」

滝川はそこまで話した時点で、今にも泣きそうな顔をした麻衣に気が付き、慌てて上半身を起こし、麻衣の口を覆っていた手で栗色の髪を撫で、顔を覗き込んだ。

「おいおい、何も麻衣が泣くこたないだろう?」

「な・・・・泣いてなんかないよ!」

慌てて怒ったように声を荒げた麻衣を、滝川は苦笑して、がしがしと髪をかきまぜた。

「本当に?」

「本当に違うから!!」

「へいへい」

「本当に!もう、ぼーさん信じてないでしょう?!違うからね!ちょっとびっくりしただけなんだから!」

「はいはい」

滝川は軽く、力をいれずに麻衣を抱き寄せて、脱色し過ぎたような明る過ぎる茶色の頭を麻衣の肩にすり寄せた。

「ぼーさん?!」

「麻衣は見たんだよなぁ」

驚き、身体を強張らせる麻衣に滝川はくすくすと笑いながら、俯いた。

「仲良かっただろ?俺ら」

「・・・・・・ぼー」

「本当に、あれで中々仲良くてさ、楽しかったんだ」

「・・・」

「楽しかったのよ」

「うん・・・」 

普段は頼もしいほど明るくて、その肩に知らず頼ってしまう大の大人の、傾いだ広い肩が切なくて、麻衣は滝川の頭に手を伸ばした。

―――― いつもと構図が逆だな。 

麻衣がそんなことを考えながら自然に伸ばした手は、しかし、滝川の頭に到着する直前に細く長い指に遮られた。

 

 

 

 

 

嫌になるほどタイミングが良く伸ばされた、細く、白く、長く、形のいい指。

 

 

 

 

 

ある種見慣れた、そしていつまでも見飽きることのない長い指。

突如現われた彫刻のように美しいその指に、麻衣は背中に氷柱が突き刺さったような悪寒を感じ硬直した。

肩に頭をこすりつけ俯いていた滝川も、突然鋼のように凝り固まった娘の異変に気が付き、いぶかしげに頭を上げ、そして、麻衣の背後から手を伸ばす御仁を見つけた。

 

「・・・・・・よぉ」

 

へらり、とだらしなく結ばれた笑みに、闇から滲み出たような漆黒の美人は、ひどく煩わしそうに顔を顰めた。

「何をなさっているんでしょうか?滝川さん」

耳を切って落しそうな冷ややかな声に、麻衣と滝川は同時に息を飲み、なんとはなしに視線を逸らし、口元を歪めた。

――― もうこうなるとナル坊には何言っても駄目だろなぁ。

滝川はその視線に腹をくくったが、それでも何か返事をしなければいけない。

「何をってなぁ・・・・娘に昔話を語ってたの。親子のコミュニケーションだ」

しかしそうして発した弁明も、漆黒の美人は案の定あっさり無視して、胡乱な瞳から殺意交じりの冷気を消すこともせず、冷ややかな眼差しで滝川の全身を一瞥し、冷笑した。

「その割にはスキンシップが過ぎるのではないでしょうか?お父さん」

「そう?」

そしてナルは片手だけで乱暴に麻衣を立ち上がらせ、痛いと悲鳴を上げる麻衣を引っ張って、後ろも見ずに立ち去った。

滝川はその2人の後ろ姿を見送り、しばし娘の不遇を思案したが、父親の手でなんとかできそうにもないと娘に頭を下げ、その場に居残り、再び縁側にごろりと寝転んだ。 

――― もう、10年も前のことだ。

それでも呼べない。

滝川は自分の中で禁句となってしまった名前に苦笑し、同じように禁じたであろう那智を思ってさらに笑みを深めた。

 

 

ざっと10年前のこと。

それはもう十分に遠い。