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遠すぎる背中 |
第9話 離してよ |
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よじれる形で乱暴に手を掴まれたまま、前庭から那智の自室へ向かう廊下を引きずられ、麻衣はたまらず高い声を上げた。 「もう、本当に痛いってば!」 声と同時に勢いよく手を振り上げて、麻衣が拘束から逃れると、先を足早に歩いていたナルはぴたりとその歩みを止め、胡乱な眼差しで麻衣を見下ろした。 「・・・・なんだよ」 思わず挑むような口調で麻衣が言い返すと、ナルは闇色の瞳を細め、自由になった両腕を組んだ。 「確かめるまでもなく、現在は調査中で、麻衣は僕の部下だと思うのだが?」 「・・・・・」 「そして僕は麻衣に指示したな。まどかと一緒に対象者と一緒にいて、監視を怠るなと」 嫌味臭く、しかし事実である職務怠慢を指摘され、麻衣はくぅっと息を飲み、そこから搾り出すように声を出した。 「・・・・・・すみません」 「お前は何をしにここに来ている」 「お仕事です」 「言葉だけだな。聞き飽きた」 「分かってるよ!」 「わかってない」 ナルは平坦な口調で断言し、心底嫌そうに顔をしかめると、形のいい顎を僅かに上向かせた。 自然、見下ろす形となる視線は、自分以外の何者をも蔑むような冷気に満ちていた。 あまりに圧倒的な威圧感。 麻衣は直視に耐え切れず、自然両手で肩を抱きながら廊下の先へ歩き、ナルに背を向けた。 そこに追いかけるように低いテノールが尋ねた。 「こんな時間に話し込むほど、重大なことがあったんだろうな」 「え?」 「そうでなければ、既に就寝したはずの麻衣がわざわざ出て来る理由はないだろう?」 「う・・・」 「逆に、そうでもなければ到底許せない」 ナルの言葉に麻衣の頭が追いつき、余計な質問を挟む前に、ナルは麻衣の両肩に手を乗せた。 麻衣はびくりと身体を震わせたが、その反応を無視して、ナルは麻衣の耳元に顔を寄せ尋ねた。 「ぼーさんと待ち合わせでも?」 耳元で囁かれる低い声に、麻衣は声を裏返し反論した。 「はっっ?や!そんなことしてないけど!!!」 「では偶然?」 「だよ!そう、そうだよ!偶然に決まってるじゃん」 「へぇ」 顔を赤く染め上げながら、こくこくと懸命に首を振る麻衣に、ナルはさらに声を落して尋ねた。 「では、麻衣は何のためにあそこに行ったんだ?」 「・・・・・・え?あ・・・・それは・・・・・その」 「理由もなく行く場所でもないだろう」 「それは・・・・」 「ぼーさんがいると知っていた?」 「えぇっと、うん、その、まぁ・・・確信はなかったけど・・・・」 「確信?」 動揺して口を滑らせた麻衣に、ナルは背後でうっすらと微笑み、肩に置いた手を前に滑らせ、さらに身体をすり寄せた。 「どういうことだ、麻衣?」 「うっっ」 「麻衣はぼーさんがあそこにいることを知っていたんだな」 巧みに言葉を代えて詰め寄るナルに、麻衣はしどろもどろと唸った。 「幽体離脱でもしたか?」 「え?」 「違うのか」 「はぁ・・・えっと」 「では、夢でも見たか」 「う、う・・・・ん」 「どんな?」 耳の端まで赤くなりながらも、そこで麻衣ははっと我に返って首を横に振った。 「駄目!」 「麻衣?」 「いや、あの・・・・それは・・・・」 「夢だろう?」 「夢だけど・・・・その、これは依頼主のプライベートに関わることだから!!」 「単なる麻衣の夢だ。麻衣は調査中は夢を報告する義務がある」 「そうなんだけど!実際にぼーさんと那智さんのことだったから!駄目だよ。私は黙秘権を行使する!!!!」 うん、絶対駄目!と、勢いよく言い切った麻衣に、ナルは僅かに両腕の力を緩めたが、すぐに倍の力で重心をかけ、肩より前に伸ばした腕をクロスさせて自身の肘を掴んだ。 「重いぃぃ」 「麻衣」 「な・・・・何ぃ?」 「お前にそんな権利があると思うのか?」 「え?」
「そんなもの、存在するはずがないだろう」
音を立てて氷点下まで落ちた声の温度に、麻衣は確実に生命の危機を感じた。 その次の瞬間、麻衣は首の裏筋に鋭い痛みを感じ、思わず悲鳴を上げた。 「たっっ」 しかしその痛みをつけた御仁はそ知らぬ素振りで嘯いた。 「それとも何か、麻衣は浮気でも?」 「や・・・ちょっとナル!何馬鹿なこと言って・・・・つうか、あんた何やってんの?離してよぉ!跡!跡付いちゃうでしょう?!」 くすぐったいように首の後ろに唇を這わせるナルに、麻衣は慌ててもがいた。 「もうぅぅ!何すんのさ!離して!!」 「離して欲しかったら、きちんと弁明するんだな」 「弁明って・・・私、何も悪いことしてない!!!」 「それを決めるのは僕だ」 「何で!?」 「分が悪いのは麻衣だ。ほら、さっさと言わないとここでするぞ」 「な―――――!!!」 なんでこんなことに、というしごくまっとうな疑問に麻衣が辿りつく前に、ナルの両手はするすると麻衣の身体を絡めていった。 麻衣は遠慮なく伸びてくる腕から逃れようと必死にもがき、そのままずるずると廊下に尻もちをついた。 冷たい床にぺたりと座り込んで、ばんざい。と、両手を挙げる格好になる。 それでも離してもらえない両手首を見上げれば、そこには目が一切笑っていない、壮麗な微笑が自分を見下ろしていた。 「麻衣」 笑わない闇色の瞳は、死神を思わせる冷酷さを宿し、酷薄に瞬いた。 「言え」 本格的な恐怖を前に、ばんざい。は、そのまま降伏のポーズとなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夢現の意識の中、僅かに目を開けるとすぐ、横に布団を並べてひいて眠っていたはずの麻衣の姿がないことに気が付いた。 ――― 谷山さん? 未だまどろむ意識の中でぼんやりとその様子を眺めていると、ようやく暗闇に慣れた視界に足音を忍ばせて布団に近づく麻衣の姿が見えた。 音を立てないように布団を持ち上げ、するりと細い体が横たわる。 ――― トイレ、かな。 那智はそこで重い瞼をそのまま閉じようとした。 しかし、自分に背を向けて横になった麻衣の細い首筋に、真新しい影ができていることに気が付き、那智の瞼はそこで静止した。 カーテン越しに入ってくる薄い月明かりだけでははっきり見えない。 那智は知らずそこに目を凝らした。 それは酷く艶かしい影に見えた。 昼間見た、明るく健康的な麻衣のイメージとはかけ離れたそれに、那智は少なからず動揺し、寝返りを打つようにして身体の向きを変え、そのまま布団を顔まで引き上げた。 ――― あれ、キスマーク・・・・だよね。 那智は目撃してしまったそれに、自分がこれほど大変な時にという腹立たしさと、裏切られたような苛立ち、それから男女間のことなら仕方がないかという諦めを感じ、小さく微笑んで瞼を閉じた。 同性の目から見ても、麻衣は愛嬌があって可愛らしい。 ――― 相手は誰なんだろうな。 半ば夢をみるように、那智は思った。 年のころから似合うのは、優しそうな安原か、神父あたりが妥当に見えた。 しかしその次の瞬間、那智はその2人がちょうど今夜はいないことに思い当たり、はっと息を殺した。
―――― オリヴァーのはずがないわ。
身のうちから湧き出る言葉に、那智は無意識のうちに答えていた。
だったら、誰?長身のリンという人?
―――― 法生でしょう。
まさか、年が違い過ぎるわ。
―――― でも一番仲が良かった。
法生のはずがないわ。
―――― なぜ?
年が違いすぎるもの。
―――― 男性は若い女の子の方がいいものよ。
ありえない。
―――― それなら、リンだって年が離れているわ。
そうよ。だったら、所長の方がよほど可能性が高いはずよ。
―――― オリヴァーのはずがないわ。
嘲笑を含んだ高い笑い声に、那智は眉根を寄せ、眠ろうと意識を凝らした。
―――― オリヴァーのはずがないわ。
声はさらに高く、自信たっぷりに言い切った。
―――― オリヴァーは、生きている女なんかに興味はないんですもの。
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