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遠すぎる背中 |
第17話 証明 |
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「出る時声かけて下さいね。ここで待ってますから」 浴室脇の廊下からかけられた麻衣の声に那智は愛想よく返事をし、脱衣所と廊下を遮るドアを閉めた。 洗面台と二層式の洗濯機があるだけの狭い脱衣所、その先には旧式の浴室がある。 那智は服を脱ごうともせず脱衣所を素通りし、そのまま浴室に足を踏み入れた。 手際よくバスタブに栓をし、中にお湯が注ぎ込むようにシャワーヘッドの向きを変え、ノブを上げた。 古いつくりのシャワーはしばらくゴボゴボとくぐもった音を出したが、ほどなくすると勢いよく湯を吐き出した。 騒々しくも均一なシャワー音が響く中、那智は脱衣所に引き返し、麻衣がベースに機材を置いている最中にくすねてきた延長コードと洗面台の前に置かれたドライヤーを繋いだ。そして丁寧にコードを伸ばし、ドライヤーがバスタブまで届く長さを計り、必要十分の長さであることを確認すると、延長コードの先をコンセントに差し込んだ。 日本の家電製品は優秀だと聞く。 このままバスタブに放り込んでも、優秀なドライヤーはそのまま電気を放出してくれるだろう。
感電死させるにはそれで十分だ。
那智は口の端を吊り上げ微笑んだ。 ここで感電死させるのは少々リスクが高い。 不意をついたとしても暴れるだろうし、大声を上げられる危険性もある。 けれど相手は小さな少女で、今現在の自分は好都合なことに体の大きな女性だ。騒ぎ出したらバスタブに沈めて、そのままドライヤーを突っ込めばいい。自分も感電するかもしれないが、そうなったらこの体から離れてしまえばいいだけのことだ。この体の持ち主が誤って感電死しようが、殺人犯になろうが自分には関係ない。 今の自分にはそんな瑣末な事に囚われている暇はない。 那智はふいに思い立ち、試しに ゛自分の名前゛ を声にだして復唱してみた。
「ジラ・エバンズ」
気に入った名前ではなかったが、それでも死ぬまで呼ばれ続けたこの名前は魂に深く染み込み、今、この状態でも胸の内が震えるのがわかる。ジラはその感触を忌々しく思いながらも、そこにある危うさを察知し、冷静に事態の重要性を考えた。 あのエクソシストにこの名前がバレてしまったことは痛い。 ジラは基本的に無神論者ではあったが、数ある霊体験を積んだ生前の記憶が裏打ちする、信仰心の強さを軽視してはいなかった。 いくら自分でもリアルネームで戒められれば、これまでのように対抗し切れるのかは自信がない。 肉体を持たなくなれば、強制的に除霊されてしまうこともあるだろう。そうなれば元も子もない。完全な方法を選んでいる時間はないのだ。少々乱暴でも、あの忌々しい女を、今、確実に殺してしまわなくてはいけない。 ジラはそう考え、脳裏に浮かんだ光景にぎりぎりと奥歯を噛んだ。 オリヴァーとキスするなんて信じられない。 そんなことありえない。 目障りだったあの着物の女ほど自分を正確に視ることもできないくせに、図々しいにもほどがある。 あんな女なんて死んでしまえばいい。 ジラは完全な殺意を胸に、ドライヤーのコードを指に絡めた。 死んでも自分のように自由意志を持った霊体になることなんてそうはできない。あんな女には絶対にできっこないだろう。 あのオリヴァーに、そんなつまらない普通の女は似合わない。 あの女が死んだら、オリヴァーも私がどれだけ " 特別 " か、わかるだろう。
そうしたら、今度こそオリヴァーは私を認めるだろう。
ジラは達した結論に満足した。 そしてふと、顔を上げ、洗面台に写る自分の姿を凝視した。 短い髪、高い身長、日本人独特の癖のある容姿ではあるが、中ではまだ精悍な容姿と言っていいだろう。 欲を言えばもう少し愛らしい容姿の方が良かったが、それほど悪いものではない。 この中身が自分とそっくりなのだから人間とは不思議なものだ。
かつて、自分の能力を理解できる者が自分の側に2人いた。 その彼らとはとても理想的な仲間だったのに、最終的に" 特別 "にはなれなかった。 そうしているうちに仲間の一人が死んで、残されたのは僅かに一人になってしまった。 それなのに彼との距離は縮まらない。 孤独感と焦燥感が募り、後に残ったのは強烈なコンプレックス。 ジラは高笑いしたくなる衝動を押さえ込み、自分の胸に手をあて、小さく笑った。 年も違えば場所も異なり、憑依したのは偶然であったにも関わらず、この身体の持ち主と自分は本当によく似た人生を歩んでいる。 ゛霊視能力 ゛ ゛ 疎外感 ゛ ゛優越感 ゛ ゛ 理解者への満たされない欲求 ゛ 抱え込んだ感情は驚くほど似ていた。
「私たちはそっくりね」
初めこそ激しい拒絶反応が出たけれど、その奇妙なまで合致した符号は、互いの感情に影響し合い、今では元からそうであったようにぴったりと張り付いて溶け合うようになっている。生温かいその感触は、なんとも居心地のいいものだ。 ―――― いい気分だ。 ジラは一人細く笑んだ。 しかし、その笑みに抗議するかのように、身体には震えが走り、心臓が早打ちした。 「何?不満でもあるっていうの?」 その変調にしぶとくも抵抗しようと足掻く那智の意識を感じ取り、ジラは鼻でせせ笑った。 「隠そうとしたって無駄よ。わたしはお前の中にいるんだ、お前の意地汚い本音くらいお見通しなんだよ。お前はもの分かりのいいふりばかりした弱虫だ。そうやって、わかったふりして自分が傷付くのを庇っているだけだ。だらしなくて本当にイライラする!わたしとお前は似ているけれど、強さが違う。こんなに臆病なお前がわたしに勝てるわけがないじゃない。少し大人しくして、わたしに協力しなさいよ」 しかし、早まるばかりの動悸に、ジラは途端に不機嫌になって残った意識を口汚く罵った。 「何だ、お前、法生とあの女が付き合ってなかったからって、意地になってるんだろう。何嬉しがっているんだ?勘違いをするんじゃないよ。だからって、法生が手に入るわけじゃない!臆病なばっかりで、自分では何もできやしないくせに、男に振り向いてもらいたいなんて、お前はそんなにいい女なの?お前はそれほど特別なの?すごい自信だね!たいした美人でもないくせに!!」 苦しげに小さくなっていく意識に、ジラはにたりと笑みをこぼし、乱れた集中力を集めるように大きく息を吸った。 「まぁ、大人しく見てなさい。欲しいものを手に入れるにはどうすればいいか、見本をみせてあげるから」 そしてジラは手近にあった洗面器を持ち上げ、力いっぱい壁に投げつけた。
浴室に、派手な衝撃音が響いた。
するとすぐに足音がして、脱衣所から切羽詰った麻衣の高い声がかけられた。 「那智さん!どうしました?!」 返事のないことから、麻衣は一拍おいて脱衣所と浴室を仕切る扉に手をかけた。 「入りますよ!」 そして声と同時に扉を開き、飛び出した栗色の髪にジラは迷いなく飛びかかり、伸ばされた細い腕を力の限り掴んだ。 「きゃぁぁ!」 鋭く上がった悲鳴。 細い腕にぎりりと爪が食い込む確かな手ごたえ。 ジラはにたりと笑み、そのまま引き千切る勢いで掴んだ腕を引っ張った。 反動でがくりと垂れた栗色の頭にジラはドライヤーを持った方の腕で肘を打ち付け、そのままバスタブへ押し倒そうと両足に力を込めた。その瞬間だった。
「ぼーさん!!!」
肘の下から予想だにしなかった叫び声が上がり、その声を追うように間髪入れずに男の低い声で真言が響いた。 「ナウマクサマンダ・バザラ・ダンカン!!」 低い声が響くと同時に、突然身体にのしかかった重い圧迫感にジラは慌てた。 喉が突き出すように前にせり上がり、腕を掴んだ手に痺れが走る。 ジラは奥歯をかみ合わせ、瞬間的に持てる限りの意識を真言を唱え続ける後方に向かって叩きつけた。 扉が傾ぐ音とともに、僅かに力が緩んだ隙にジラは逃れようとする麻衣の髪を思い切り引っ張り上げ、崩れた上半身めがけて体当たりした。鈍い衝撃と共に倒れ込んだ麻衣に、ジラは必死にしがみ付いた。 しかしそれを阻止するように背後からは直に真言が復活した。 「オン・キシリ・バサラ・ウン・ハッタ!」 「 Jira Evans 」 しかも背後からは更に脳裏に直接呼びかける流れるような英語が聖書の戒めを説き、背筋を凍らせるような水音がした。 ――― 聖水?! それを意識した途端、呼吸が苦しくなり、まるで鉄柵で身体を刺されるような痛みが走った。 ジラはガチガチと歯を噛みながら苦痛に耐え、シャワーの水しぶきを浴びながらもがく麻衣の首に腕を回した。 気がつけば、準備したはずのドライヤーはどこかに飛ばしていたが、激しい痛みと苦しみの前でそんなことには構っていられなかった。 ジラは腕力と精神力だけでそのまま麻衣の首を締め上げた。 ―――― こうなったら絞め殺してやる! ジラは最後の力を振り絞って両手に力を込めた。 女の指でも十分に回る、細い首だ。 それは直にでも折れそうに見えた。
その時、鋭い痛みがジラの右太ももを貫いた。
心臓を貫かれたような激しい衝撃に、身体の機能は瞬間的に奪われた。 右足から挫かれたように力が抜け、ほんの僅か、指と精神に隙間が出来る。 それを背後の人間達が見逃すことはなかった。
「 In principio 」
足掻く間もなく、ジョンに告げられた聖句により、ジラの意識は那智の肉体から離れた。 限界まで身体を強張らせていた意思の力が抜け、那智の身体はそのまま麻衣を巻き込んでバスタブに倒れ込んだ。 「麻衣!那智!!」 切迫した呼びかけに、麻衣は自分の上に圧し掛かる那智の身体を押しのけながら、何とか片腕を上げて手を振った。 「だ・・・・だい、じょうぶぅ」 絞められた喉が張り付くように痛み呼吸を辛くさせたが、麻衣は声を張り上げ返事をし、酸素不足で霞む視界の中、俯いた那智の肩に手を回し、声をかけながら那智を揺さ振った。 「那智さん・・・・那智さん、大丈夫ですか?」 反応のない那智に麻衣が顔が歪んだ。 その時、滝川の腕が伸び、ぐったりと前屈みになった那智の身体が抱き起こされ、全身を濡らしていたシャワーが止んだ。 「那智さん!」 ようやくクリアになった視界で、麻衣が目の前の那智の顔を覗き込むと、那智は放心した体で涙を流していた。
「那智さん?」 「那智?」 「大丈夫でっか?」
狭い浴室に詰め寄る形となった麻衣と滝川、ジョンはそれぞれに那智の顔を覗き込んだが、那智は焦点の合わない視線のまま、声もなく泣き続けた。 「落ちてない?」 滝川は力の抜けた那智を抱え上げつつも、緊張を解かず他の2人の顔を見比べた。しかし、麻衣とジョンははっきりと首を横に振った。 「もうジラさんの気配はしないよ」 「はいです。落ちた感触もありましたですよって」 2人の断言に滝川が僅かに肩の力を抜いた。 すると脱衣所から冷ややかな声と柔らかな声が飛んだ。
「いつまでそうしているつもりだ?」 「大丈夫?落ち着いたのなら、とにかくお風呂場から出て!みんな風邪引いちゃうわ。滝川さんは那智さん運べるわよね?」
ナルとまどかの声に促され、3人はとりあえず頷きあい、滝川が那智を抱き上げ、ジョンが麻衣に手を貸してバスタブから引っ張り上げ、狭い浴室から順番に外に出た。 「ジラは落とせたか?」 「大丈夫と思いますです」 「ぼーさん、山上さんの状態は?」 「放心状態」 ナルとのやり取りに、まどかが割って入り、未だ無言で泣き止むことのない那智の顔を覗き込んだ。 「那智さん、大丈夫?私わかる?」 バスタオルを手渡しながら心配そうに声をかけるまどかに、那智は泣いたままであったが僅かに頷いた。 まどかはそれに頷き返し、那智の頭を撫でた。 「まぁ、あれだけ激しい憑依状態だったんだから仕方ないわ。まずは着替えが必要ね。滝川さん、着替え持っていくから、ひとまず控え室まで運んでちょうだい」 「はいよ」 「麻衣ちゃんは大丈夫?」 最後に浴室から出てきた麻衣は、まどかの声にしっかりと頷き返した。 「皆がすぐ来てくれたから、大丈夫ですよ」 「痛い所ない?」 「腕がちょっと痛いかも」 苦笑する麻衣にまどかは顔を曇らせながらも、バスタオルをかぶせた。 その横をすり抜け、廊下に出た滝川に、先に待ち構えていたナルは音もなく歩み寄り、抱えられた那智に声をかけた。 「山上さん、今、何があったかわかりますか?」 常と変わらない、感情の込められていない冷ややかな声。 その声に、那智ははっとしたように身体を強張らせ、ナルから顔を背けるようにして慌てて滝川にしがみつき、その胸に顔を埋めた。那智のその態度に滝川は肩をすくめ、ナルを見遣った。 「まぁ、話は落ち着いてからにしようや。それよりも、お前さんこそ大丈夫なのか?」 滝川の指摘に、ナルは僅かに眉を上げたが、それ以上その場で追求することはなく、控え室に向かう滝川に道を譲った。 その様子に滝川も苦笑ともつかない笑みを浮かべた。 「まぁ・・・終わったことを四の五の言いたくねぇけどよ、あんまり無茶はするなよ。うまくカモフラージュできたつもりでいるなら、大間違いだ。おそらく全員にバレてるからな」 すれ違い様に滝川に釘を刺され、ナルは肩をすくめた。 その後をジョンとまどかが追い、最後に麻衣がナルの横に立った。 無言で自分を見上げる麻衣。 その視線から目を逸らそうとしたナルは、首筋についた赤い指の痕を見つけ、眉間に皺を刻んだ。 「何?」 「首」 「ああ・・・」 ナルに指摘され、麻衣は自分の首に手を伸ばし、恐る恐る撫でた。 「分かってたんだけど、よけ切れなかった」 「あちらも本気でだったからな」 「うん、本当に殺されると思った」 今更ながらその恐ろしさが追いついてきたのか、ぶるりと震わせた麻衣の肩を、ナルはぽんと軽く叩き、言った。 「よく気がついた」 その世にも珍しい褒め言葉に、麻衣は不謹慎とは思いつつも、こみ上げる嬉しさを堪えきれず、微笑みながら頷き返した。
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